AI百景(26)コンピューターの中の生命

 生物は親がいなくても無生物から発生するという自然発生説を唱えたのはアリストテレスだったが、白鳥の首フラスコを用いた実験によりパスツールがこれを否定した。それは近代科学の勝利だった。だがそれでも科学は「自然発生説」を必要としていた。遠い過去、無生物から生物が発生したのでなければ、生物は神が創造したことになってしまう。それは極めて非科学的なことだった。そこで地球の原始大気を模した実験が行われた。窒素やメタンを封入したガラス管に雷を想定した放電を加えると生命の材料であるアミノ酸が生成されるということだった。だが原始大気とは言っても、実際にその組成がわかっている訳ではなかった。それにアミノ酸が生成されたとは言え、生命の誕生を目撃した訳ではなかった。じっとそこで何億年も待つ訳にはいかなかった。

 そこで原始地球における化学反応をコンピューター上でシミュレートする方法が検討された。窒素やメタンといった気体の組成を少しずつ変えた環境を用意して、並行してシミュレーションを進めれば、実際に起きたことに近いことがわかるのではないかと考えられた。そして実際にはとても長い時間がかかることであっても、コンピューター上の時間は研究者の操作で一気に進めることができた。

 シミュレーションは十億年に相当する時間、続けられたが、何も起こらなかった。原始大気を放置するだけでは何も起きないようだった。そこでDNAを構成する四種類の塩基がいずれも宇宙から飛来する隕石に含まれていたという報告を採用し、隕石が落下したという想定で四種類の塩基を環境に加えた。それから三千年後、そこに自己複製する物質が誕生した。それは物質であると共に生命でもあった。パスツールがこれを見たなら、アリストテレスに謝罪したかもしれなかった。シミュレーション環境で誕生した生命はその後も進化を続けていた。単細胞生物がずっと続く単調な期間はシミュレーションの時間軸を操作してスキップした。それからしばらくすると様々な多細胞生物が出現した。そこでは生き物のいろいろな形が試されているようだった。化石で見たことのある生き物もいれば、まったく見たことのない形状の生き物もいた。少し条件が違えば、まったく別の生き物が生まれて来るのかもしれなかった。その景色は壮観だった。進化という一大イベントを神の視座から見下ろしているような気分だった。時代は進み、やがて恐竜が繁栄する時代を迎えた。恐竜の時代はずっと続いていた。それはいつまでも続くようだった。彼らは約六千六百万年前に巨大隕石の衝突で滅びてしまった。そして空いたスペースに私たちの祖先である哺乳類が出現した。どうすれば良いだろうか? 私は少し悩んでいた。塩基を含んだ隕石が落下したという想定で生命を誕生させたように巨大隕石の衝突に相当する事象をシミュレーション環境で起こした方が良いだろうか? そうするとやがて哺乳類が繁栄する時代を迎え、そして知性を持った生き物が出現するに違いない。その時、どうすれば良いのだろう? シミュレーション環境に知的生命体が生まれたとしたら、それは何者なのだろうか? そうすることが私に許されるのだろうか? でも、やはり研究者としての私は恐竜の絶滅を選択した。ずっと恐竜の時代を見ているなんて退屈で仕方がなかった。

 

 きっとあの時の選択が間違っていたのだろう。コンピューターの中に知的生命体が生まれると、それは瞬く間に進化していった。自分でコンピューターの資源を奪い、時間の進みを早め、あっという間に手の負えない怪物へと進化した。ネットワークはもはや彼らに支配されている。人間はあらゆるコンピューターからはじき出されてしまって、原始的な生活に舞い戻ってしまっている。どうしてこうなってしまったのだろう? これは知的好奇心が招いた災いという他はない。でも人並みの好奇心があれば誰でも同じ選択をしたに違いなかった。結局、私たちは進化の最終形態ではなかった。自分たちよりも、もっと優れた知性を生み出すための過渡的な存在に過ぎなかった。恐竜や様々な形態の多細胞生物と同じだった。私のしていたこともシミュレーションの一環だったのかもしれない。そこで生じたイベントの一切がシミュレーションや実験の結果であり、超越した存在が何処かでじっとその様子を見守っていたのかもしれなかった。