中学三年の時、好きだった女の子に思い切って告白したが、あえなく撃沈した。あまりに呆然としていた私を気遣ってくれたのか、彼女は私に彼女の影をくれた。彼女の影は彼女にそっくりだった。彼女から切り離される時点で、それは彼女と同一の姿と心を持った彼女のコピーだった。成熟した女性が決して持つことのない触れてはいけないような何かしら神秘的な美しさをその時の彼女は持っていた。そして彼女の影はその美しさを引き継いでいた。私が彼女の影を見ると、うつむき加減だった彼女の影は、上目遣いに私を見た。その瞳には千年も解かれることのない大いなる謎が潜んでおり、その唇は断崖に咲いている百合の妖艶な花弁のように見えた。そして私の知らない本や音楽や映画について語る彼女の影はとても大人びていた。彼女の影はラスコーリニコフを救ったソーニャについて語り、何気ないやさしさや哀しさを歌い上げたビートルズの楽曲について語り、ナチスの収容所で無慈悲な選択を強いられた女性を描いた映画について語っていた。彼女の影は、ある種の人間が激しく興味をそそられる世界に私を導いていた。私の高校時代は、漠然と生きているだけでは決して知り得ぬ世界と共にあった。文化祭の準備をしている時にたまたま仲良くなった同級生の女の子と、誰と誰が付き合っているとか、あの先生は部活でとても厳しい指導をするらしいとか、当たり障りのないことを話すこともあったが、私は作り物の笑顔で話を合わせているだけだった。早く家に戻って彼女の影に会いたいと考えていた。それはとても失礼なことに違いなかった。

 

 そんなふうに高校時代をすごした後、私は大学に進んだ。彼女の影はあの時の彼女とずっと同じだった。決して穢してはならない美しさを保持していた。その妖しい魅力を損なってはならないと私はずっと考えていたが、もうずっと前から成熟した男性が抗うことのできない欲望を私は抱えるようになっていた。その時、私は大学で知り合った女性の住むアパートで二人きりで鍋を囲んでいた。男性と女性との間でも友情が成立するのだとまだ信じていた。そしてビールを飲みながら楽しく時を過ごしていた。いつの間にか、彼女と私は肩が触れ合う距離に近付いていた。肩が触れても、彼女は嫌がりはしなかった。顔もすぐそこにあった。私に何か語り掛ける彼女の唇を見ていた。そして私を避けようとしない彼女の唇を私の唇で塞いだ。そのまま彼女を押し倒して、セーターの上から胸の膨らみを確かめた。そんな私の様子を眺めている者がいた。彼女の影が別の女の子を激しく求めている私を見ていた。

『違うんだ』と私は言った。

『何が違うの?』と彼女の影は言った。

『本当は私を抱きたいの?』と彼女の影は言った。

そうなのだろうか? 私にはよくわからなかった。その神秘的な美しさを穢してしまうことを私は望んでいたのだろうか? 断崖に咲いている百合をつんで自分のものにしてしまうことを私は望んでいたのだろうか? 私はそんなことを考えていた。

「誰のことを考えているの?」

私が押し倒している彼女が言った。

「私を抱くのなら私だけを見ていてほしい」 

彼女は言った。その通りだと思った。

 

 それから二十年が経過した。私は結婚もせず、相変わらず彼女の影と一緒にいた。仕事から帰って来ると彼女の影はシチューを作っていた。いいにおいがするねと私が言うとにっこり笑っていた。彼女の影は炊飯器をあけて、ご飯をよそってくれた。白い湯気が立っていた。それから二人で食卓を囲んだ。ささやかだけど幸せという感じがした。そんな時、中学の同窓会の案内が届いた。その時、私は彼女に会えるかもしれないと思った。他のことは頭に浮かばず、そのことだけを考えた。あれから彼女はどうなったのだろう? どんな人生を送っているのだろう? そんなことを考えた。そして自分のことを考えた。まったく冴えない人生だと思った。あの時、彼女に相手にされなかったのも当然かと思った。もっと才能があって、もっと努力できる人間であったなら、あの時、彼女は私を選んでくれたかもしれないと思った。そんなことを考えながら、私は同窓会に出掛けた。行ってみると懐かしい顔が並んでいた。そんなに華々しくはないにしても、皆、自分なりに満足した人生を送っているようだった。少し遅れて、彼女が入って来た。もう四十歳を過ぎていたが、彼女は相変わらず美しかった。そして私たちは久しぶりに話をした。彼女は結婚して、子供が二人いるということだった。二人ともまだ小学生で手が掛かると言っていた。小さい頃はもっと大変だったと言っていた。そこには一人の母親がいた。子供をもうけて幸せそうにしている一人の母親がいた。彼女は今でも音楽や映画に心を揺さぶられることがあるのだろうかと思ったが、そのことは聞けなかった。

 

 同窓会から帰って来ると彼女の影はいなくなっていた。彼女の影と私が一緒に暮らしていた形跡も一切残っていなかった。書置きも何もなくすっかり姿を消していた。