月の夜

 寂しげな鈴虫の鳴き声が聞こえる。少し肌寒い初秋。人里離れた旅館にもう長いこと滞在している。縁側に座り、ぽっかりと浮かんだ月を眺めている。しばらくして女将がやって来る。和服がとても似合う清楚な女性だ。常連客ということで気さくに声を掛けてくれる。

「月が綺麗ですね」

別に口説こうとしているのではない。本当に月が綺麗だった。都会では見たことのない妖しい輝きを放っていた。もしかしたら月はずっと同じ姿を見せていたのかもしれない。私がそれに気付かなかっただけなのかもしれない。

「そうですね」

女将はにっこり笑って返事をしてくれる。その笑顔を見る度に癒される。私は少し疲れているのかもしれない。いままでずっと仕事に忙殺されて来た。売り上げ拡大、利益拡大、業務効率化、そんな言葉が重要とされる世界に組み込まれて生きて来た。無理な日程の開発を押し付けられても、部下の機嫌を取りながら、なんとか辻褄を合わせて来た。上司からの依頼はどんなに些細なことであっても、リアルタイムに対応して来た。顧客の身勝手な要求にも誠意と笑顔で対応して来た。仕事が終わってからも接待で飲みに行った。お客さんの信頼を勝ち取るためにはビジネス上の付き合いだけでは足りなかった。家にいる間は、寝るか食事を取るかの二択だった。そんな生活を続けていたから、月が出ている夜も、そのことに気付かずにいた。本当に価値のあるものを知らずに私は生きて来たのかもしれない。

 

 鈴虫は今夜も寂しげな音色を聞かせてくれていた。鈴虫だけではない。ここに来て私はいろいろな生き物の鳴き声に耳を傾けるようになった。蜩の涼し気で儚い鳴き声を聞きながら、子供時代を思い出していた。あの頃は季節と共に、あるいは虫や他の生き物と共に私は生きていたのかもしれない。私はすっかり自然の中にいた。花が咲いては喜び、警戒するような鳥の鳴き声に耳を澄まし、突き抜ける風に心地良さを覚え、静かな夜にぼんやりと月を眺めていた。でもいつからかその暮らしは私の元から離れて行った。そして気がつけば私の周りには人間ばかりがいた。そして互いに要求し合うようになっていた。いつも最大限の努力を払って誰かのために尽くしていた。そして自分にも尽くすよう誰かに要求していた。今夜も月が綺麗だった。私は彼女の部屋を訪れた。彼女は布団に横になっていた。月明りが射し込んでいた。私はそっと彼女の横に寝ころんだ。そしてキスをした。彼女は目を開けてやさしい眼差しで私を見ていた。私は彼女の着物をはだけさせた。美しい乳房を月が照らしていた。月が作り出す陰影を私は見ていた。そして私たちは心ゆくまで愛し合った。静かな夜だった。月が私たちの愛し合う様を眺めていた。十分に愛し合ってから、私はそっと彼女の額にかかる髪をすくっていた。ずっとこの世界に留まっていたいと私は思った。この儚い世界こそ私の求めていたものだと思った。

「子供ができたみたい」

その時、彼女が呟いた。

 

 生まれて来た子供を育てるために私は必死になって働いた。侘び寂び。花鳥風月。そういった日本的な美しさを求める人々が一定数いるものなのだ。そんな人たちにこの旅館の存在を知らしめるため、私はホームページを開設した。現代人の心の隙間にすっと入り込んでリピーターをたくさん作らなければならないと妻は私にハッパをかけて来る。そうか、ここも同じなのか? 私は夜空に浮かぶ月を見ながら思った。