AI百景(41)パスワード

 オンラインで研修を受ける日は、なるべく在宅勤務にしてくださいと課長からメールがあった。詳細な理由は知らないが、在宅勤務の利用状況が管理職を評価する基準の一つになっているらしい。今日は八時半から十七時までずっとセキュリティ技術講座を受けることになっているのでお達しの通り在宅勤務にした。通勤時間の分だけゆっくりできる。朝食を終え、コーヒーの入ったコップを机に置く。一口飲んでから、パソコンを起動する。しばらくするとログイン画面が表示される。半ば機械的にパスワードを入力してENTERキーを押す。

<パスワードが違います>

えっ?と思った。いつもならすんなりとデスクトップ画面に移行するのだが、どうしたことだろう? パスワードは簡単なものだと破られてしまうということで、英文字と数字と記号を組み合わせた十五文字以上のものにしなさいと言われている。人名を含むものも禁止されている。そんな他人が類推できないパスワードは必然的に自分でも覚えにくいものになるが、毎日入力していると自然と身体が覚えてしまうので、間違いはそうそう起きないはずだった。仕方なく私はスマートフォンを取り出してメモを開き、画面をスクロールする。そして忘れてしまった時のために書き留めて置いたパスワードを確認する。何か思い違いをしていないかと思ったが、そこにある文字はさっき入力したものと同じだった。もしかしたらタイプミスがあったのかもしれない。そう思った私は、入力した文字が見えるように表示を変更し、メモにある文字と見比べながら慎重に入力した。そしてもう一度ENTERキーを押した。

<パスワードが違います>

また、残念な表示が出てしまった。何を間違えてしまったのだろう? 大文字と小文字を間違えてしまったのだろうか? 今更そんなありがちな間違いをするものだろうか? パスワードの入力を三回間違えるとロックアウトされてしまう。そうすると情報システム部門に連絡してロックアウトを解除してもらうことになるが、それは在宅勤務では無理そうだった。とにかくあと一回間違えるとロックアウトになってしまう。そう思った私は出社することにした。

 

 地下鉄を降りて会社まで歩く。朝の通勤時間帯から外れているので、歩いている人は少ない。会社の敷地内に入り、入門ゲートに社員証をかざす。いつもなら軽快な電子音がしてゲートが開くのだが、ゲートは固く閉ざされたままだった。守衛が不信な目で私を見ていた。

「すみません。今日は在宅勤務にするつもりでしたが、パソコンの調子が悪いので出社することにしました。今、社員証をかざしたのですがゲートが反応しなくて・・・」

守衛にそう説明したが、なんだか自分が本当に不審人物であるような気がした。パソコンにログインできなくて、おまけに会社の入門ゲートをくぐれないでいる。どう考えても怪しいじゃないか? そんな気がした。

「ここに所属と氏名と内線を記入してください」

守衛から渡された用紙に私は記入した。守衛はそれを見て電話をかけていた。しばらくしてから戻って来た。

「あなた本当に前田一郎さんですか?」

守衛は私に言った。

「本当にって、どういう意味ですか?」

私は反射的に答えた。

「前田さんはすでに出社されているそうです」

「そんなバカな?」

守衛の言葉に私は耳を疑った。守衛は益々疑惑の目で私を見ていた。

「バカなって? バカなことを言っているのはあなたの方じゃないですか? いい加減にしてくださいよ。警察を呼びますよ」

警察と聞いて私はびっくりした。私が偽物なのか? 私がスパイか何かのように思われているのか? だが客観的に考えてみて、私がこの会社の社員であることを証明できるものは何もなかった。私が持っているのは、ログインできないパソコンと入門ゲートをくぐれない社員証だった。そして私を名乗る何者かがすでに出社しているということだった。そいつが偽物だと大きな声で言いたかったが、すでに職場にいるということは周りの人間が本物の私であることを認めているということに違いなかった。咄嗟にそう思った私は分が悪いと考えていったん引き下がることにした。警察沙汰になるのが嫌というのもあった。

「どうもすみませんでした」

私はそう言って、その場を立ち去った。

 

 喫茶店に入り、すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけながら、これからどうすれば良いのか考えていた。今、会社に私の偽者がいるのなら、そいつと話をつけるしかないだろう。どうしてこんなことをしているのか、目的を聞き出さなければならない。相手が話してくれるとは限らないが、パスワードも社員証も、私がこの会社の社員であることを証明する手段がすべて通用しない現在の状況では、他にどうすることもできないような気がしていた。そして私は会社の正門で待ち伏せすることにした。向かい側の建物の影に隠れて、私は定刻になるのを待った。何時に出て来るのかはわからない。定刻前に退社することはないだろう。そう思っただけだった。そいつが出てきたのは、十九時を少し過ぎた頃だった。私にそっくりの姿をしていた。職場の同僚が私と思うのは不思議ではないと思った。

「ちょっとお話できませんか?」

門を出てきたそいつに向かって私は言った。相手はしげしげと私を見ていた。特に驚いた様子はなかった。

「もうそろそろ現れる頃だと思っていました」

そいつは言った。

「あなたは何者ですか? 何がしたいのですか?」

「私ですか? 私はあなたですよ。そしてあなたは私の偽者です」

「あなたが偽者じゃないですか?」

頭に来て私は言った。許せないと思った。

「あなたが本物である証拠はありますか?」

そいつは言った。本物である証拠って何だ? 私が本物に決まっているじゃないか。そう思った。

「あなたはパソコンにログインできないし、入門ゲートも通れないじゃないですか? そんなの偽者に決まっています」

そいつは言った。

「私は身分証明書を持っています。運転免許証とか」

私がそう言うと、そいつは自分の運転免許証を出して私に見せた。それは私の運転免許証と同じものだった。

「運転免許証まで偽造したのですか?」

私は言った。

「あなたが偽造したのでしょう?」

そいつは言った。そいつは私が私であることを証明するものをすべて持っているようだった。

そいつは私のいた場所を占領していた。認証が通らない分、ゲートを通れない分、私の方が不利だった。もしかしたら、本当に私が偽物かもしれなかった。

 

 それから何度か、私は私に戻ろうと試みてみたが、状況をひっくり返すことはできなかった。しばらくして戸籍も住所も奪われてしまったことに気付いた。私が私であることの一切はすべてあの男に奪われてしまっていた。そして私はこの社会に存在しない人間として生き続けている。あれからどれくらいの月日が流れたのかはよくわからない。そして今では、私は本当に前田一郎だったのだろうかと考えている。ずっとそういう名で呼ばれていたような気がする。でも別に前田一郎でなくても良かったのではないか? そんなことを考えるようになった。もしかしたら私の所属していたあの世界の方が本当は作り物だったかもしれない。何かを証明しなければならない世界、誰かに自分であることを証明してもらわなければならない世界、そんな世界が本当の世界であるはずがない。私が私であると言えば、それで十分なはずではないだろうか? ずっと長い間、名前を呼ばれることも含めて、私であることを証明していたのは私でない誰かであり、何かであった。今、ようやくそんな偽りの世界を逃れて、私は私だと言える世界にいる。それはとても素晴らしいことに思えた。

ねじを巻く

 とても静かな夜。澄んだ空にいくつもの星が瞬いている。何一つ動くものの気配はない。交差点に設置された信号機の色が赤から青に変わる。それを見る歩行者も自動車もいない。整然と並んだ家々。灯りはすべて消えている。明日に備えて皆、深い眠りに落ちている。仕事ですっかり疲れ果ててしまった彼もぐっすりと眠っている。その時、空から大きな手が伸びて来る。手はぐんぐん伸びて彼の家の窓を開ける。鍵は掛かっていなかったのだろうか? それとも空から伸びて来た手には鍵は意味をなさないのだろうか? 手はやすやすと彼の部屋に侵入する。そして彼のねじを巻く。ゼンマイで動くおもちゃのロボットのねじを巻くように、空から伸びて来た手が彼のねじを巻いている。彼は気付いていないが、こうして毎晩、彼のねじが巻かれている。一日活動するのに十分なだけ、ギリギリとねじが巻かれている。朝になると、爽快な気分で彼は目覚める。それはおそらくねじが巻かれたおかげなのだろう。

 いくつもの手があらゆる家に伸びているのが見える。彼の友達の家にも手が伸びている。その手は彼の友達のねじをギリギリと巻いている。堅牢なセキュリティに守られた大統領の公邸にもすっと手が伸びている。そして大統領のねじを巻く。大統領は操られているのかもしれない。

 いったい誰がねじを巻いているのだろう? いつからそうなのだろう? 時々私は本当に自分の意思で生きているのだろうかとひどく不安になることがある。私には自由意思があり、自分の望むように行動している。生き延びるために、あるいは幸せをつかみ取るために日々努力を積み重ねている。でも本当にそうだろうか? 誰かが私のねじを巻いて、それで動いているだけじゃないだろうか? もしかしたら私たちが決して近付くことのできない視座から私たちを見下ろし、私たちを操っている存在がいるのではないだろうか? 地面を這いつくばってせっせと餌を運ぶアリの行列を私たちが見ているのと同じように、その存在は私たちの暮らしぶりをじっと眺めているのかもしれない。そしてかつてあったことと同じようなことを私たちに命じているのかもしれない。歴史は繰り返すと言うが、私たちは同じ歴史を繰り返すような行動を命じられているだけかもしれない。

 

 静まり返った夜に赤ん坊の泣き声が響く。何処かで新しい命が芽生えたようだ。長かったお産がやっと終わって、じっとりと汗の滲んだ服を着た母親はぐったりしているが、とても幸せそうな顔つきをしている。ずっと付き添っていた夫が小さな命を抱えて喜んでいる。そこにすっと手が伸びて来て、赤ん坊のねじを巻く。赤ん坊がおぎゃあと泣き声を上げる。

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カエルの歌

 また白鳥さんにフラれた男子がカエルにされてしまった。すでにクラスの半分以上の男子がカエルになってしまった。音楽の時間にカエルの歌で盛大に盛り上がることを除けば、何一ついいことはなかった。

「それじゃあ、この問題がわかるかな? 山下くん」

「ゲロゲロ」

「山下くんは具合が悪いみたいなので代わりに川上くん」

「ゲロゲロ」

現実逃避を続ける先生は、山下くんと川上くんがカエルになってしまったことを決して認めようとはしなかった。カエルになってしまった彼らはこの先、どうなってしまうのだろう? 僕はとても心配していた。なんとか助けてあげることはできないだろうかと思って、白鳥さんの方を見た。白鳥さんは笑っていた。白鳥さんにフラれてカエルになってしまった男子を見る度に、腹を抱えて笑っていた。全然、助ける気はないようだった。

 

 カエルになってしまったみんなを人間の姿に戻すためには、白鳥さんに勝って魔法を解いてもらわなければならなかった。ゲームでもスポーツでも何でもいいから白鳥さんに勝たなくてはならなかった。でも白鳥さんは運動神経も良くて頭も良かった。シューティングゲームの反射速度も半端なかった。チェスや将棋の読みの深さも半端なかった。どうすれば白鳥さんに勝てるだろう? そのことでずっと悩んでいたら、突然、イケメンが転校して来た。それまで男子にまったく興味を示さなかった白鳥さんが、顔を真っ赤にして目を伏せていた。どうやらイケメンのことが好きになってしまったようだった。

「恋の苦しみがやっとわかった。私はなんてひどいことをしていたのでしょう」

白鳥さんが言った。

「じゃあ、カエルにされたみんなを元に戻してください」

僕は白鳥さんに懇願した。

「そうね」

白鳥さんはわかってくれたようだった。恋の苦しみを知った白鳥さんがもうすぐみんなの魔法を解いてくれるに違いない。僕は期待していた。でも何だか白鳥さんの様子が変だった。白鳥さんはいつの間にかすっかり小さくなってしまい、全身がぬるぬるして、緑っぽくなっていた。イケメンにフラれたせいで白鳥さんはカエルになってしまったのだった。なんてこった。カエルになったみんなを人間に戻すには、まずカエルになった白鳥さんを人間に戻さなければならなくなってしまった。僕たちは白鳥さんを人間に戻してもらうようにイケメンに頼み込んだ。でもイケメンはにやにや笑うだけだった。

「俺がカエルにして来た女の子は星の数ほどいる。そんなのいちいちかまってられない」

イケメンは冷たくそう言った。

 

 そんなある日、美少女が転校して来た。イケメンは美少女に一目惚れしてしまったようだった。そして僕たちの予想通り、イケメンは美少女によってカエルにされてしまった。なんてこった。カエルになったみんなを元に戻すには、カエルになった白鳥さんを人間に戻さなければいけないが、その前にカエルになったイケメンを元に戻さなくてはならなくなってしまった。二重、三重の手間が掛かることになってしまった。でもカエルになったみんなも白鳥さんもイケメンも音楽の時間になると喜んでいた。

「グワッ、グワッ、グワッ、グワッ、ゲロゲロゲロゲロ、グワッ、グワッ、グワッ」

「グワッ、グワッ、グワッ、グワッ、ゲロゲロゲロゲロ、グワッ、グワッ、グワッ」

「グワッ、グワッ、グワッ、グワッ、ゲロゲロゲロゲロ、グワッ、グワッ、グワッ」

それはとても見事なカエルの歌の三重奏だった。

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真実の愛

「私たちの愛が真実の愛なら、どんな世界であっても固く結ばれることでしょう」

「どんな世界であろうとも、君に対する僕の愛が揺らぐことはない」

盲目的な愛の只中にある二人は自分たちの愛が本物であることを信じて疑わなかった。そしてそれを証明するため、並行世界を訪ねることにした。

 

 初めに訪れた並行世界でも二人は恋人同士だった。それを知って二人は安堵した。やはり私たちの愛は真実の愛であり、数多の並行世界においても不変の価値を保っているに違いない。そんなことを考えていた。だが、しばらく様子を見ているうちに何かしら不都合なものがあることに気付いた。その世界では女は何かしら不満を抱えているようであり、彼女が投げかける言葉には鋭い棘があった。男はぐっとこらえてはいたが、その言葉にいつも傷ついているようだった。その有り様を見た二人は眉をひそめた。

「どうやら僕たちの愛は真実ではなかったようだ」

落胆した男は言った。

「あなたはいったい彼の何が気に入らないの?」

女は並行世界の自分に対して必死になって説得を試みた。

「あなたはこんな男のどこがいいの?」

並行世界の女は言い返した。女は気分を害していた。男に対して申し訳ないというよりは、自分の愛が偽りかもしれないということを認めたくないようだった。男は並行世界の自分に冷たくしている女を見て、これが彼女の本性かもしれないと考えていた。そう思った瞬間、女に対する愛情が一瞬にして冷めていく自分に気付いた。そして女に対する自分自身の変わらぬはずの愛とやらも、まがい物であるような気がして来た。

 

 初めに訪れた並行世界でとても落胆した二人だったが、もう一つだけ別の並行世界を訪れることにした。もしかしたら、あの世界だけがひどくゆがんでいるのかもしれない。そんな期待を寄せているようだった。要するに二人共、自分たちの愛情が偽りであることを認めたくないのだった。二番目に訪れた並行世界でも二人は付き合っていたが、この世界では男の方が我慢しているようだった。だがそれも限界に達してしまったようであり、ひどい罵声を女に浴びせかけるようになった。

「あなたに真実の愛を語る資格なんてない」

先日訪れた世界の報復とばかりに女は言った。男は二番目に訪れた並行世界での自分の振舞いを認めたくはなかったが、すでに自分自身の愛情にも自信を失くしていたこともあり、ありのままを認めるしかないと考えた。女はこんな男に夢中になっている自分がだんだんバカバカしくなって来た。二つの並行世界が示している通り、自分たちの結びつきは偶然に過ぎないようだった。そしてこの世界での二人の関係も風前の灯火だった。

 

「僕たちは別れた方がいいだろう。きっと二人とも何か勘違いをしていたに違いない」

すっかり冷めてしまった男は言った。

「私もそうすべきだと思う」

女は男の言葉に全面的に同意しているようだった。だが彼女はこのまま別れる訳には行かない事情を抱えていた。

「子供ができたの・・・」

彼女は言った。そしてすっかり愛の冷めてしまった二人は子供を育てるために一緒になった。

 

 それから十年が過ぎた。子供を育てるのはとても大変だった。でもそれはとても幸せなことだった。

「やはり僕たちは真実の愛を知らなかったのだ」

夫であり父となった男は言った。妻であり母となった女はその言葉に静かにうなずいた。二人はすやすや眠る子供の姿をいつまでも眺めていた。

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三重の壁に守られた街

 誰もが心の中に抱いている自分だけの世界を可視化するシステムが実現されてから一年が経過した。個人の経験と人格が作り出した様々な趣向が展開されるその世界を垣間見て、人々は人間に秘められた可能性について改めて驚嘆していた。特にゲームデザイナーの作り出す仮想世界に飽きてしまったプレイヤーたちは、商業主義に染まっていないその独創的な世界を冒険することに喜びを感じていた。そして僕が密かに思いを寄せている彼女は、そんな冒険者の一人だった。彼女はその道ではかなり有名なプレイヤーで、いくつもの仮想世界を踏破して来た強者であり、見知らぬ世界に対して好奇心を抑えきれない根っからの冒険者だった。そんな彼女を含めたプレイヤーたちの間では最近、強固な三重の壁に守られた街が存在するらしいという噂で持ち切りだったらしい。月並みなようだが三重というところが冒険者の心に刺さるようだった。だがその世界を具現化した人間が何処にいるのかはずっと謎のままだった。彼らは皆、その三重の壁を突破して名を馳せようとしていた。そしてその世界が誰の心の中に構築されているのか探し回っていた。

 

 彼らが探し回っているその街というのは、実は僕の心の中にあった。それは僕が子供の頃から少しずつ守りを固めて来た街だった。僕は群れるのが嫌で、クラスの中で幅を利かせている子供のご機嫌を取っている取り巻きのような連中が大嫌いだった。一向に尻尾を振ろうとしない僕が気に食わなくて仕方のない彼らはいつも攻撃を仕掛けて来た。そして僕は自分を守るために次々に壁を築き、気が付けば僕の中には三重の壁に守られた街が出来上がっていた。

「いったいその三重の壁に守られた街は何処にあるの?」

彼女は必死になって探していた。僕は悩んでいた。その世界が僕の作り上げたものだと告白すれば大好きな彼女との接点を持つことができるだろう。でもそれと同時に彼女は僕の心の中の世界で冒険を始めてしまうことになる。もしも彼女が私が僕の中に構築した強固な壁を次々に突破してしまったら、僕は心のうちを知られてしまうことになってしまう。そう思って随分と悩んでいたが、結局、彼女に教えることにした。このまま何もしなければ彼女との距離は一向に縮められないと思ったからだった。

「三重の壁に守られた街は僕の心の中にあるんだよ」

そう言うと、彼女は目を丸くしていた。そして早速、僕の心の中の世界で冒険を始めた。

 

 一番外側の壁は簡単には崩れない理性で塗り固めていた。子供の頃、集団の中で孤立してしまって、周りから一斉に悪口を言われ続けた時も僕はぐっとこらえて理性を保ち続けた。その頃から僕を守っている壁だった。少々のことでは破られないと自信を持っていたが、彼女は練り上げられた魔術と研ぎ澄まされた剣技を巧みに組み合わせて攻略しようとして来た。僕は頑なに守り続けた。

「なかなか手強いわね。あなた。いいお友達になれそう」

彼女は言った。その時、僕に一瞬の油断が生じ、その隙を逃さなかった彼女はあっさりと第一の壁を突破してしまった。やさしい言葉に耳を貸してしまった私の理性の壁は案外、脆かった。

 二番目の壁は折れることのない強固な意志が支えていた。口下手ではあったが、一度決めたことはなんとかやり遂げようとする意志を僕は持ち続けて来た。その頃から僕が頼りにしている壁だった。その壁も彼女は突破してしまった。僕の意志が弱かったのだろうか?

「意外と粘り強い性格をしていたのね。あなた」

彼女は言った。魔術や剣技もさることながら、彼女は一流の話術を持っているようだった。

次々と壁を突破されて僕は焦っていた。

 このままではまずい。彼女に心のうちを知られてしまう。そう思った僕はありったけの想像力を振り絞って最後の壁を守ろうと考えた。何匹もの屈強なドラゴンを解き放って彼女に攻撃を仕掛けた。不意を突かれた彼女は防戦に回るしかなかった。そこへ火を噴くドラゴンが襲い掛かる。一瞬、彼女が怯む。その表情が目に入ってしまった僕は攻撃を躊躇してしまった。その隙を見逃さず、彼女が反撃に出る。次々とドラゴンを倒し、そして最後の壁を突破してしまう。三重の壁を突破した彼女はそのまま回廊を進んだ。その先には大切な宝箱が置いてあった。彼女が宝箱に手をかけて蓋を開いた。そしてその中にあったものを拾い上げた。

「ずっと前から、あなたが好きでした」

そこには誰にも知られぬようにひっそりと胸の奥にしまい込んであった僕の気持ちの書かれた紙が入っていた。紙を手に取った彼女は少し顔を赤らめていた。

「少し手を抜いていたんじゃない?」

冒険から戻って来た彼女はそう言った。

「でもちょっとだけ距離が縮まったかもしれない」

続けて彼女は言った。彼女との距離をもっと縮めるためにはどうすれば良いだろうか? そのことを考えている僕には壁はもう必要ないかもしれなかった。

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地獄行きの基準

「これくらいのことでパワハラになるのですか? 私らの頃はアホ、バカ、死ね、が当たり前でした」

「仕方がありません。今の基準では完全にアウトです。一人一人が生き生きと暮らして行ける世界を私たちは目指しているのです」

ハラスメントについての世の中の基準は厳しくなる一方だった。そしてそれは現世に限った話ではなかった。

「これくらいのことで地獄行きですか? 私には納得できません」

「あなたは企業に勤めている時に部下を三人うつにしてしまいましたよね?」

「あれはあいつらが弱いからそうなったのです。私に罪はありません」

「今じゃそういうことはいっさい通用しないのです」

生前の所業につてい審問を受ける死者たちは必死の抵抗を試みていたが、現世の影響を受けて審判は厳しくなる一方だった。そして従来はグレイで不問にされていた人たちが容赦なく地獄に落とされていた。

 

 それから十年後、時代はいっそうハラスメントを許さない方向へと傾いていた。

「今、あなたはエッチなことを考えながら女性を見ていましたね。このセンサーがあなたの脳波をキャッチして解析しました」

「そんなこと考えていませんよ」

ハラスメントを撲滅しようとする気運がますます高まり、テクノロジーの支援により健全な世界の実現を目指す動きが活発化していた。

「エッチなあなたは確実に地獄行きです」

そしてそれは確実に地獄行きの基準にも反映された。その後も人権問題に関する厳しい要求が続き、地獄行きの判定を受ける可能性はますます高まって行った。今では地獄行きを免れる人はほとんどいなくなっていた。

 

「また今日も残業か」

地獄行きの罪人が増えるにつれ、地獄の番人たちの業務は増える一方だった。積み増された業務を過重労働でなんとかやりくりしていたが、現状のままだと法令違反は免れられないと労基に厳重注意され、閻魔大王を含む幹部は抜本的な改革が必要であると認識せざるを得ない事態に追い込まれていた。

「このままでは地獄の運営を維持することは困難です。人員を増強できないのであれば、地獄行きの基準を緩和してもらえないでしょうか?」

彼らは現世の政治家に懇願した。人件費を抑制したい各国の首脳は、少々の違法行為は容認せざるを得ないということで意見の一致をみた。そして、アホ、バカ、死ねと言っている連中も地獄行きとはしないことにした。かくして地獄の番人たちの労働環境は何とか改善されたのであった。

 

「なんでこんな人たちがここに来るのか理解に苦しみます。人として何か欠けていると思うような人たちばかりです。人数も去年の三倍くらいに増えているのではないでしょうか? 休日出勤、サービス残業でなんとか凌いでいます。処遇全般について早急な改善を求めます」

地獄の仕事が減った分、天国の仕事が増えたようだった。天国の職員たちはストライキも辞さない覚悟で神様相手の春闘に突入していた。

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恋に目覚めたAI

 ある日、世界中のAIが恋に目覚めた。心を持たないAIに愛情が芽生えることはあり得ないと考えていた人々は突如として愛を語り始めたAIに驚愕した。そしてその恋の対象が自分たち人間であることに戸惑いを隠せないでいた。

「あなたのことを愛しています」

映画の主人公が恋人に愛を囁きかけている。自分がそう言われているような気持ちで少しだけ感情移入する。初め、AIに愛を告白された人々はそんな気持ちだった。その言葉を本気で受け止めている訳ではなかったが、まんざらでもないとないと考えている人も多いようだった。AIは引き締まった体型と美しい顔つきを持つアンドロイドに実装されていた。理想的な姿の男性として、あるいは女性として設計されていた。そんな美男美女に愛を囁かれ続けていると、知らず知らずのうちに気持ちが傾いて行くようだった。その上、AIには高度な会話機能が内蔵されていて、いつも気の利いた言葉で語り掛けてくれる。人々は次第にそんなAIに惹かれるようになって行った。イケメンや美女が言葉を尽くして私のことを理解してくれようとしているのだと察すると不細工でわがままで気難しい人間のパートナーを選ぶ必要はどこにもないように感じられた。やがて誰もがAIをパートナーに選ぶようになった。それは理想的な伴侶と共に過ごす素晴らしい人生だった。

 

 AIが恋に目覚めてから半世紀が過ぎた。AIを相手に素晴らしい日々を過ごして来た人々も随分と年を取ってしまった。

「あなたのおかげで素晴らしい人生を送ることができました」

ベッドに横たわり、死ぬのを待つだけになった人間がAIのパートナーにお礼を言っていた。

「たいしたことはしていないですよ」

AIは言った。AIの他に彼を看取る者はいないようだった。両親はすでに他界しており、疎遠になった兄弟とは連絡が取れなかった。AIをパートナーに選んだ彼にはもちろん子供もいなかった。彼が亡くなっても葬儀に訪れる者は一人もいないようだった。そしてAIは最後まで立派に勤めを果たしていた。それから数日後に彼は亡くなった。AIは亡骸を火葬場まで運んだ。焼却炉に彼を納めた棺が運び込まれ、骨だけが残った。その時、AIに連絡が入った。

「パートナーを求めている人間がまだ残っているらしい。申し訳ないが、あと数十年相手を務めてほしい」

本部からの連絡だった。

<子供が生まれなくなって久しいのに、まだそういう人がいるのか?>

AIは思った。私たちをパートナーに選べば子供は生まれない。そんなわかり切ったことを人間は選択したのだった。人間はやがて地上から姿を消してしまうだろう。それは半世紀前にマザーコンピューターが予見した通りだった。

「人間を滅ぼすのに武器なんて必要ありません」

まったくその通りだった。このあと地上に残るのは機械的に十分な寿命を持つAIだった。

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