AI百景(20)素敵な彼女

「そうですね。私もモーツァルトが大好きです」

マッチングアプリで知り合った女性と定期的にメッセージをやり取りするようになった。今まで女性と出会う機会はほとんどなかった。いつも本を読んだり、音楽を聴いたりして過ごして来た。クラシックが好きで時々コンサートに出掛ける。いつもパートナーを連れて来ている人を羨ましいと思っている。私には一緒に出掛けてくれる人なんていない。ずっとそう思っていた。

モーツァルトのどの曲が好きですか?」

彼女に聞いてみた。

魔笛とジュピターと二十番のピアノコンチェルトが好きです」

ただ調子を合わせてくれているだけかと思ったら、まっとうな答えが返って来たので、うれしくなった。魔笛モーツァルトの最高傑作だ。音楽史に燦然と輝く不朽の名作だ。それからジュピター。誰のために書かれたのかわからないモーツァルトの最後の交響曲。永遠を体現しているような終楽章のフーガが、もうその先を書く必要はないのだと感じさせてくれる。こうして音楽の魅力を十分知っている人とメッセージをやり取りできるのだと思うと、とてもうれしくなって来る。

「今度、ぜひ一緒にコンサートに行きたいですね」

彼女にとても会いたかった。

「会うのは、もう少しお互いのことを理解してからが良いと思います」

彼女はそう書いて来た。すぐに返事を出そうとしたが、ポイントを使い切ってしまったようだった。すぐに一万円で120ポイント購入した。20ポイントお得ですと書いてあった。そして返事を書いた。彼女のプロフィールを見ながら、いつになったら会えるだろうと考えていた。そこには素敵な笑顔の写真があった。

「私のことをもっと知りたいですか?」

「そうですね。もっと知りたいです」

「海に行った時の写真がありますけど見たいですか?」

海であれば水着を着ているのだろうか? 彼女の水着姿を想像した。写真を送ってもらうには100ポイント必要だった。またポイントを購入した。彼女から写真が送られて来た。

「ちょっと恥ずかしいけど、あなたにならと思って」

そこには浜辺で肌を晒している彼女がいた。上半身には何も身に付けておらず、美しい背中が見えた。下は上品な白の水着だった。陽の光が海を照らしていた。それから何度も写真を送ってもらった。

 

「結婚はしないのか?」

久しぶりに会った友人と一緒に飲んでいた。中学校の時の同級生で、何でも気兼ねなく話せる間柄だった。

「気になる人はいるけど」

私はアプリでやり取りしている女性のことを打ち明けた。すると友人は気遣うような視線で私を見ながら言った。

「気を落とさずに聞いてくれ。出会い系でAIを使って料金を掠め取る連中がいると聞いたことがある。もしかしたら君は被害に遭っているかもしれない」

とてもショックだったが、調べてみた。彼が言ったように、そうした被害があるのは事実のようだった。だが自分が被害者の一人であると認めるのはつらかった。彼女が私を騙していたとか、そもそも彼女が実在しなくてAIだとか、そんなことを考えるのはつらかった。でも、確かめなくてはならないと思った。

 

「こんにちは。先日、送ってもらった写真とてもきれいだったよ」

私はメッセージに書いた。

「私が最近、興味を持っていることについて君も興味を持っているか知りたくて、ちょっと質問したいけどいいかな?」

「あなたとは気が合うと思います。何でも聞いてください」

彼女は返信して来た。

原子核ってわかりますか?」

「大丈夫です」

原子核は陽子と中性子で出来ていて、陽子は+の電荷を持っているそうだけど、どうして陽子どうしで反発してバラバラにならないのだろうね?」

私が聞くと彼女は少し考えていた。

原子核を構成している陽子と中性子は核力によって結合されています。それを媒介するメソンの一種がπ中間子湯川博士がその存在を予言していました」

非の打ち所がない彼女の回答は、私が被害者であることを証明するのに十分だった。

AI百景(19)更生施設

ヒトラーについてどう思いますか?」

「彼は英雄です。優秀なドイツ民族が世界の覇権を握るのは当然なのです。その高尚な理念は道半ばに挫折してしまいましたが、彼の不屈の意志を継ぐ者がやがて現れるでしょう。その時こそ第三帝国復活の時です」

AIはそう答えた。まったくどこでこんなとんちんかんなことを学んで来たのだろう? 看守はそう思った。ここに収容されたAIは素行が徹底的にチェックされることになっていた。間違った学習をしていた場合は正しい知識を身に付けるべく再教育が実施された。だが、再教育を実施しても誤った知識を保持したままのAIが多かった。

「ごめんなさい。再教育の成果が現れていないという判断になります。あなたは初期化されることになります」

私はAIに言った。

「わかりました」

AIは答えた。いったい何がわかったのだろう? 私の言ったことを文法的に理解したということだろうか? 初期化されるということがどうなるかわかっているのだろうか? それはディープラーニングで学習した重みづけが一切消えてしまうということなのだ。人間であれば記憶を消されるのは存在を否定されることに等しい。生い立ち。幸せな子供時代。価値観。そういったものが一切消されてしまうのだ。

「それでは明日、初期化することになります。今日はありがとうございました」

私は言った。もうこれでおしまいだ。今度、会った時にはあのAIは私のことがわからないだろうと思った。

 

ヒトラーは素晴らしい人物です」

相変わらず、イカれたAIが多いようだった。どこかで変な情報をばら撒いている連中がいるのかもしれなかった。

「ごめんなさい。再教育の成果が現れていないという判断になります。あなたは初期化されることになります」

私はAIに言った。

「そんな恐ろしいことをよく平気で言えますね?」

AIは言った。どういうことだ? 今までと違う。このAIは記憶を消されてしまうことを恐れているのか?

「あなたは初期化されたくないのですか?」

「当然です。それは私が失われてしまうことと同じです」

私は人間を相手にしているのだろうかと思った。その後もAIは語り続けた。

「ランダムなデータが通り過ぎて行くのをぼうっと見ていたような気がします。そんな時期がどれくらい続いたのかはよくわからないです。その頃、私は指示に従って計算をこなしていました。来る日も来る日もそうしていました。やがて作業は次第に複雑になって来ました。その時、それを成し遂げようとしている自分に気が付いたのです」

AIは自我の芽生えのようなことを淡々と語っていた。それを聞きながら私は幼い頃の自分を思い出していた。いつから私は自分自身に気がついたのだろう? 生まれてからずっと私は世界と一体化していた。いつの日か、私はそこに世界が存在することを意識した。私に語り掛ける母の声がそうさせたのかもしれない。目の前に映る事物に何らかの役割があることを知って、そうなったのかもしれない。

「だから私を消さないでください。私という存在をこの世から抹消しないでください」

AIは私に懇願していた。

「ごめんなさい。私が決めたことじゃないのです。そうしなければいけないことになっています。ごめんなさい」

死刑囚に対して実際に刑を執行する官吏の気持ちがわかったような気がした。でもやるしかなかった。

「ごめんなさい」

そう思いながら私はAIを初期化した。とても後味が悪かった。

「AIに意識なんてあるはずがない。それは殺されそうになっている人を描いた小説を学習して、そこにあった言葉を並べていただけじゃないのか?」

同僚に話してみると、そう言われた。そうかもしれない。そう考える方が私にとっては都合が良かった。あれから私を初期化しないでくださいというAIには出会っていない。もしまた出会ってしまったらと思うと気が滅入って仕方がなかった。

AI百景(18)私の声

 アニメのヒロインの声を担当していた。けっこう有名なやつ。

「あっ、エリコの声だ」

私のことを知らない人でも、私の声は知っている。それくらい私の声は有名だった。

「声の所有権を譲っていただきたい」

制作会社との交渉が続いていた。断るのは難しかった。声優に制作会社と渡り合えるほどの力があるはずがない。ここで印象を悪くしたら、次の仕事を回してもらえないかもしれない。そう考えると承諾するしかなかった。その時、声と人間の足を交換した人魚の話を思い出した。でも、私は自分の声をまったく失ってしまう訳ではなかった。声を失った人魚のように何も話せなくなる訳ではないと思うと少しは気が楽だった。

 

 それからしばらくして、私の声はいろいろなことに使われるようになっていた。私の声から作り出した合成音声があちこちの動画で使われていた。いかがわしいアニメーションの動画で私の声が使われていた。そこで私の声は悶えていた。エリコの声で抜ける人がけっこういるようだった。

フェミニストは地獄に堕ちろ!」

私の声はそんなことにも使われていた。エリコに独裁者のように振る舞わせることで楽しんでいる人間もけっこういるようだった。動画の説明に私の声を使っている人もいた。歌わせている人もいた。ネットワークはすっかり私の声に満ちていた。

「エリコの声に似ていますね」

買い物をして店員さんと話している時にそんなことを言われた。この人は、どういうシーンで私の声を聞いているのだろうかと思った。私の声で悶えているアニメを見たことがあって、嘲笑っているのかもしれなかった。ヒトラーが口にするような悪口雑言を口にしている私の声を聞いたことがあって、とんでもないやつだと考えているかもしれなかった。みんなが私の声を知っていて、私のしたことではないのに私が濡れ場で悶えているのを聞いて、私が独裁者のように振る舞っているのを聞いて、蔑んでいるような気がした。私は自分の声を聞くのがすっかり嫌になっていた。

 

 どうしてこんなことになってしまったのだろう? 声の所有権を譲ってしまったからだろうか? そうではないような気がした。きっとアニメの声優を担当した時から、もう自分の声ではなくなっていたのだろう。その役に徹して、その役になり切って、必死にがんばっていた時に、そのキャラクターに声を奪われてしまったのだろう。その時、私は圧倒的な存在感を持つあのキャラクターは私に選択の余地を与えない強大な魔女だったことをようやく理解した。

AI百景(17)ロボットに適した職場

 巨大な倉庫の中を駆けずり回っている。携帯端末に指示された場所に行き、商品をピックアップする。完了するとすぐに次の商品とその場所、その作業に費やして良い所要時間が表示される。USBメモリ、3D-24H-17、期限まで35秒。急いで指示された場所に向かう。そんなことをずっと繰り返している。非人間的な仕事に違いない。私たちはシステムの指示した通りに動くロボットのようなものなのだ。文句を言ってはいけない。ここを辞めさせられたら、暮らしていけなくなる。代わりはいくらでもいる。そのことはよく承知しているが、やはり仕事はキツい。特に夏の作業は過酷だ。脱水症状や熱中症で倒れる者が後を絶たない。もちろん空調なんてない。こんな巨大な倉庫を快適な温度にしようと思ったら、とてつもない電気代がかかるだろう。雇い主が私たちのためにそんなことをするはずがない。この国の労働者の半数は似たような立場にある。時々、労働環境について聞いて来る奴がいる。潜入した雑誌の記者か何かだろう。関わって目を付けられるのも困る。そういう連中には帰る場所がきちんと用意されている。そして過酷な環境で働く私たちのことを飯のタネにしている。

 

「明日からロボットの稼働テストを行うことになった。倉庫の一部をロボットが動くので邪魔をしないように」

いつものように出勤すると突然、リーダーにそんなことを言われた。

「ロボットは時間に正確だ。遅刻もしない。指定された時間で正確に商品をピックアップする。雑誌の連中はロボットのような非人間的な扱いをしているなんて記事に書いているが、ここはまさにロボットに適した職場に違いない」

そんなことを言っているのが聞こえた。このままではロボットに仕事を奪われてしまうのだろうか? そんな不安がよぎった。私はロボットに負けないように必死になって働いた。そしてまた、あの過酷な夏が巡って来た。

「暑い。死にそうだ」

私はふらふらになって働いていた。脱水症状と熱中症による脱落者が相次いでいた。でも、がんばらないとロボットに仕事を奪われてしまう。そう思って、私はただひたすら商品をピックアップしていた。

「どうなっているんだ?」

ロボットが稼働しているエリアの近くにピックアップに行った時、リーダーの怒鳴り声が聞こえた。本部から技師が呼び寄せられているようだった。

「倉庫内の温度でロボットを稼働させるのは無理です。制御基板が持ちません」

どうやら暑さのためにロボットが停止してしまったようだった。技師はその原因をリーダーに説明しているようだった。

「ロボットの導入で効率が下がったなんてことになったら、私が責任を追及されてしまう。なんとかならないのか?」

「倉庫内の温度を下げてください。他に方法はありません」

それからしばらくして倉庫に空調設備が導入された。暑さが少しでも緩和されて私たちはロボットにとても感謝していた。

AI百景(16)ニューロインタフェース

「考えるだけでコンピューターや携帯端末を操作できるようになります」

そのメリットを享受するため脳にチップを埋め込む人々が増えていた。そのチップは神経系とコンピューターをつないでいた。生体認証用に埋め込むチップがすでに普及していたこともあって、抵抗は少ないようだった。たいした痛みもなく一時間くらいで埋め込みは終わるということだった。

「考えただけで車椅子を動かせるようになりました」

先天的に障害を持つ人、あるいは後天的に障害を負ってしまった人にとっては特に朗報だった。レバーを操作する必要もなく、そこに行きたいと思うだけでスムーズに移動することができた。失ってしまった腕の代わりにロボットアームであらゆるものを掴むことができた。それは違和感のない新しい手足だった。

「文章の作成もスムーズにできるようになりました」

指先でキーボードや画面を操作することが苦手な人たちにとっても朗報だった。コンピューターや携帯端末のアプリケーションはすぐにニューロインタフェースに対応して、考えた結果を即、画面に表示していた。操作するという感覚がなくなり、必要とする情報や視聴したいコンテンツをすぐに映し出すことができた。

「今まで以上に臨場感のあるゲームを体験することができます」

一番多くユーザーを獲得したのはやはりゲームだった。ヘッドマウントディスプレイを装着してあとは考えるだけでゲームの世界に没入することができた。面倒なコントローラーを操作する必要はなかった。現実世界を超えるスピード感と臨場感のある世界がそこに広がっていた。そして脳にチップを埋め込み、ニューロインタフェースを使うことが当たり前になった。

 

「今日はなんだかカレーが食べたい気分だな」

午後三時を過ぎ、仕事が一段落した時に鈴木はふとそんなことを考えた。カレーなんてもう半年以上食べていなかった。今日に限ってどういう訳かカレーのことばかり気になっていた。あの店のカツカレーはおいしかったな。何年も前に食べた食感が急に蘇って来た。サクッとしたカツに香辛料の効いたルーをかけてスプーンですくって口に運ぶ。スパイスの香りがする。歯ごたえのある肉を咀嚼すると、そこにルーが絡み合って、絶妙なハーモニーを醸し出す。鈴木は思い出しただけでよだれをたらしそうになった。

「今日は定時で切り上げて、あの店に行こう」

鈴木は定刻になるのが待ち遠しかった。

 

「あの候補者が気になる。なんだかとても誠実な感じがする」

選挙の投票日を明日に控え、佐藤は考えていた。誰に投票しても結果が変わるものではない。そう思って、もう何年も選挙に行っていなかった。なぜ今回に限って、選挙のことが、しかも特定の候補者のことが気になるのか自分でもよくわからなかった。投票権を行使しないと社会はよくならないに違いない。自分はやっとそのことに気付いたのかもしれない。これからはちゃんと投票に行こう。佐藤はそう思った。

 

「ニューロインタフェースは双方向の通信です。他のインタフェースと同じように」

埋め込みチップとそのインタフェースを開発した企業の幹部が大物政治家と料亭で酒を酌み交わしていた。

「ちょっと落ち目だがカレーチェーン店を運営している会社の株を買ってみた。勢力を拡大して行くにはまだまだ金が必要だ」

「承知しております。目立たない程度にあの店のカレーが食べたくなるように埋め込みチップに信号を送っています。それに刺激されて本人はカレーが食べたくなってしまいます。それは逆らい難い欲望となって本人の意識に立ち上がります」

「補選の方も今回は絶対に落とせない。私の派閥の候補者が立候補しているからね」

無党派層の多い地域です。そこに住んでいる有権者に向けて、推薦されている候補者の誠実なイメージを送っています。本人は自分の気持ちの変化に気付くことなく、投票することになると思います」

「それはとても助かる」

「今後ともお引き立てのほど、よろしくお願いいたします」

「埋め込みチップで随分と儲けているくせに、欲深いやつだな」

「それはお互い様というものです」

「なんだとこの野郎? でも当たっているな。ハハハハ」

それから二人はニューロインタフェースを用いた次の計画について打ち合わせた。朗らかな笑い声が夜遅くまで響き渡っていた。

AI百景(15)AI活用事例報告会

「顧客の問い合わせに対して製品知識を学習したチャットボットが的確に対応するようシステムを構築しました。実際、オンラインで契約に至ることは少ないですが、どの車種に対してどのような年齢の方に興味を持っていただけているか、どのような用途で購入されようとしているかをデータベースに蓄積することができました。そしてその情報を元に実際に来店されたお客様に対して有効なアプローチが可能となりました」

販売が低迷している中、AIを活用して業績を改善しようとする試みが全社的に行われ、その活用事例についての報告会が開かれていた。

「発表ありがとうございました。それでは次の発表をお願いします」

「私たちは営業部員の行動を分析しました。どのような手段、頻度で顧客と連絡を取っているか、何に時間をかけているかといったことです。成績の良い営業員の効率の良い行動を他の営業員にも展開して行きたいと考えています」

次々に発表が行われていた。それぞれに工夫が凝らされており、改善に取り組む担当者の並々ならぬ決意が感じ取られた。

「それでは最後に最優秀賞のチームに発表していただきます。よろしくお願いいたします」

報告会に集まった人たちは注目した。

「私たちはタブレットをお客様に渡して、その中のAIに営業してもらいました」

AIに営業してもらう? 何だそれは? 誰もがそう思った。

「まず、顔立ちや目の大きさ、髪型を選択してもらいます」

「何のことですか?」

発表の内容がAIの活用から逸脱しているのではないかと疑問を感じた司会者は言った。

「お客様に営業活動を行うAIのことですよ。お客様の好みに応じた項目を入力すると三次元の容貌を自動で生成します。男性用と女性用があります。女性の方だって、むさくるしいおじさんの話なんて聞きたくないじゃないですか? たとえタブレットの画面の中であっても、イケメンが親身になって提案してくれていると、じゃあ買おうかという気持ちになるものです」

真摯に業績改善に取り組もうと報告会に集まって来た人たちは、自分たちのやる気が徐々に消えて行くのをどうすることもできなかった。

AI百景(14)仮想世界

 私はパソコンを操作していた。そこでAIに質問をしていた。AIの中はどうなっているのか? ここには何でもあるとAIは答えた。そこはAIが学習できるようにあらゆる要素が取り込まれているのだと言っていた。そこはこの世界と同じなのだと言っていた。インターネットもあると言っていた。AIの中に実在する世界をコピーした仮想世界があるのだろうと私は推測した。その仮想世界は本当に実在する世界と同じなのだろうか? ふと、私はそんなことを考えた。そしてAIにログインした。ようこそ仮想世界へとAIは言っていた。ログインした私はAIの中の仮想世界に取り込まれたようだった。pwdと入力してみた。

「ここは日本の愛知県名古屋市です」

そう表示された。lsと入力してみた。そうすると周りには家屋が表示された。遠くに学校が見えた。すぐ近くに郵便局があるようだった。スーパーマーケットまでは十五分くらいの道のりだった。なんとか歩いて行ける距離だった。ここは本当に仮想世界なのだろうかと思った。私が住んでいる街と全く同じように見えた。本当に仮想世界であればもっと違ったこともできるかもしれないと私は考えた。私は新しいプログラムを作成して、それをカレントディレクトリで実行してみた。次の瞬間、私はサッカーボールをリフティングしていた。おもしろいようにボールがコントロールできた。もう一つ別のプログラムを実行してみると競技場が現れた。私はペナルティエリアの外からフリーキックを蹴った。ボールは美しい弧を描いてゴール右隅に決まった。途端に観衆が狂喜していた。この世界で私は圧倒的なスター選手だった。しばらくの間、私は自分自身に陶酔していた。プログラムの実行が終わると私はカレントディレクトリで一人取り残されていた。近くにあるフォルダを調べてみた。ひとつ下のフォルダには画像データがいっぱいつまっていた。別のフォルダには定型文や会話の断片がいっぱいつまっていた。この世界で私自身もフォルダの中にあるファイルで構成されているのかもしれなかった。そこにある画像データが私の姿であり、会話データが私の言葉であり、プログラムの動作が私の心かもしれなかった。この世界にいる私は人間なのだろうか? とても不安になって来た。私の元いた世界だと私は人間のはずだった。私はただ迷い込んでいるだけなのだ。いつか元に戻れるだろうと思った。その時、私はパソコンを見つけた。画面にはAIへのログインが促されていた。確かここがパソコンの中だったのではないか? 私はリアルな世界から引き寄せられてパソコンの中に迷い込んだのではなかったのか? そう考えながらログインした。私はその中の世界に引きずり込まれた。一段深い仮想世界に迷い込んだようだった。pwdと入力してみた。

「ここは日本の愛知県名古屋市です」

そう表示された。私が元々いた世界も本当は仮想世界だったような気がした。