桃太郎の裁判

 地獄の第一法廷に閻魔大王が現れた。今日の被告人はちょっとした有名人であり、さすがの閻魔大王も少し緊張しているようだった。いつも公正公平を心掛けて裁判に臨んでいるというのが彼の口癖だった。今日もそうするだけだと自分に言い聞かせながら、平常心を保とうとしているようだった。やがて看守が被告人を連れて来た。

「被告人『桃太郎』を連れて参りました」

「被告人は着席して下さい」

羽織袴で正装した桃太郎が被告人席に座った。

「では始めましょう」

閻魔大王の言葉に続き、検事が罪状を読み上げた。

「被告、桃太郎は酔って無抵抗の鬼たちを猿、雉、犬と共謀し、殺戮しました。加えて鬼たちが代々の資産として保有して来た金銀財宝を略奪したということです」

一同がざわめいた。世間で鬼退治と呼ばれているアレは単なる殺戮行為、略奪行為に過ぎなかったのか? 英雄と呼ばれているこの男は、ただの犯罪者だったのか? 不信の目が桃太郎に注がれた。検事の後ろには証人として呼ばれた鬼たちがいた。片腕を失った者、片目を失った者、傷を負っていない者は一人としていなかった。一同はその痛ましい姿から犯行現場の凄惨な状況を思い浮かべた。おのれ、桃太郎。許せん!

「被告人は罪を認めますか?」

閻魔大王が問い掛けた。桃太郎は黙秘していた。

「証人を呼んでいます。発言をお許しください」

検事が言った。哀れな鬼たちの様子を見る限り、桃太郎の有罪は揺るがないと思われた。ここで証人を呼ぶ必要はあるのだろうかと一同は考えた。検事の後ろには桃太郎の育ての親であるお爺さんが立っていた。

「発言を許可します」

厳かに閻魔大王が言った。するとお爺さんがおずおずと話し始めた。

「私は見てしまったのです」

お爺さんはR18指定のない小説では書くことの許されていない極めて破廉恥なシーンを語り始めた。お爺さんが涙ながらに訴えるところによれば、あろうことか桃太郎はお婆さんと不倫していたということだった。鬼ヶ島で暴虐の限りを尽くしたかと思えば、自らの欲望の赴くままに恩人でさえ裏切る。もはや人ではない。卑怯なり、桃太郎!

お爺さんのあまりにショッキングな証言により、法廷は沈黙していた。もはや桃太郎の味方は一人もいないと思われた。

「こちらも証人を呼んでいます」

桃太郎の弁護人が言った。こんなウンコ野郎の味方をする奴がいるのかと一同は思った。弁護人の後ろには漁師のような恰好をしたあの人とまさかりをかついだあの人が立っていた。

「桃太郎のやったことは許されることではありません。しかしながら彼もまた被害者なのです。どうか罪を軽減してはもらえないでしょうか?」

浦島太郎は言った。隣に立つ金太郎もうなずいていた。こいつらいったい何しに来たのだろうと一同は思った。桃太郎が有罪になると次は自分たちがヤバいと考えたのだろうか? 竜宮城で放蕩の限りを尽くした男と毎日クマにハラスメントしていた男のことだ。やましいことはいっぱいあるに違いない。

「被害者というのは具体的にどういうことなのでしょうか?」

検事はすかさず質問した。

「桃太郎は明治時代になってから富国強兵のスローガンに利用されて来たのです。日の丸のハチマキに陣羽織という姿は明治時代以降の創作なのです。猿、雉、犬も元々ただの仲間であって上下関係はありませんでした。彼は周辺国侵略の先鋒として国家に利用されていただけなのです」

浦島太郎は涙ながらに訴えた。そうだったのか? ネットを検索していると時折、見かけるあのイカレタ装束はその時代の名残だったのか? 法廷は同情で満たされた。仕方がない、もう許してやろう。そんな空気が流れていた。

「たとえ国家の指示であっても、国語の教科書や唱歌によって彼が日本国民を侵略戦争に導いたのは事実です。許すべからざることです。鬼畜米英の掛け声の下に私たちの同胞が何人も殺されました」

証人が言った。どこの証人だろう? 鬼畜米英? 鬼が退治されたのではなかったっけ? 鬼は米英のことだっけ? 桃太郎は戦争犯罪人なのか? 法廷は混乱していた。

「あなたは誰ですか? 勝手な発言はやめてください」

閻魔大王が言った。

「私は占領軍総司令官マッカーサーです。日本を正しい国に導く使命を負って、ここに立っています」

「そんなことより、傷を負った鬼たちに見舞金をお願いします。彼らはこれからどうやって暮らしていったら良いのでしょう?」

「ワシのばあさんを返してくれ。やつがすべてをぶち壊しよった・・・」

「皆さん、落ち着いてください。まもなく厳粛な裁きが下ります。どうか落ち着いてください」

古今東西の有名人が入り乱れ、地獄の第一法廷は収拾がつかなくなっていた。マッカーサー元帥は鬼のような形相をしていた。まさかりを担いだ金太郎は臨戦態勢に入っていた。

「それでは判決を言い渡します」

相次ぐ有名人の登場にすっかり存在感を失くしていた閻魔大王が言った。その時、轟音と共に法廷の天井が突き破られ、巨大なモモが落ちて来た。モモは二つに割れ、中から武装した猿、雉、犬が飛び出し、瞬時に法廷を制圧した。状況を確認した桃太郎は薄ら笑いを浮かべながら悠々とモモに乗り込み、猿、雉、犬が続いた。割れていたモモは閉じられ、空中に浮かび、破れた天井を抜けて飛び去って行った。その一部始終を一同は啞然として見ている他なかった。

「静粛に! 静粛に!」

思わぬ成り行きで、被告人の逃亡を許してしまった閻魔大王は明らかに立場を失くしていたが、なんとか場を繕おうとしているようだった。一同の視線が大王に注がれた。

「それではこれより、竜宮城での常軌を逸脱した無銭飲食容疑、及びクマへの度重なる悪質な暴行容疑に関する裁判を執り行います。被告人両名は前へ!」

「なんでやねん!」

法廷に浦島太郎と金太郎の悲痛な叫び声が響き渡った。

めでたし。めでたし。

再現した恋人

「私は彼女なしには生きていけないのです」

当社には親しい間柄だった方を亡くした人たちが頻繁にやって来る。その方々に先端技術を駆使して故人を再現するサービスを提供している。故人の再現にはまず五十項目から成る設問に回答してもらう必要がある。その結果からアンドロイドで実現すべき類型が導かれる。故人を撮影した映像を提供してもらえれば、とても役に立つ。その画像を解析して、癖や仕草といった個人を特徴づける細かい動きを忠実に再現することができる。髪の毛や肌の質感も当社が独自開発した素材を用いてリアリティの高いものに仕上げることができる。

「いかがでしょうか?」

依頼主の目の前に再現された恋人が座っている。依頼主はいたく感心した様子でじっと眺めている。

「それでは受け取りのサインをお願いします」

当社が提供するアンドロイドは極めて高額であるため、とりあえず一年のレンタルということで契約を結ぶ。解約の手続きがなければ契約は自動更新される。そして依頼主はアンドロイドを持ち帰った。あるいは彼女を連れて帰ったと言うべきなのかもしれない。

 

「今日は何をして過ごそう?」

「あなたの好きなことならなんでも」

「じゃあ映画でも見に行こう」

持ち帰ったアンドロイドは身振りも話し方も死んだ彼女にそっくりだった。彼は失った生活を取り戻したような気がしていた。彼が仕事で疲れて帰って来るとアンドロイドの彼女が暖かく迎えてくれた。食事をしながら今日あった出来事を彼女に聞かせた。彼女はニコニコして彼の話を聞いていた。そんな日常がずっと続いた。

「これが私の望んだ生活だったのだろうか?」

しばらくすると彼は自問するようになった。失くしたものは確かに取り戻した。だが彼は何か物足りなさを感じていた。彼女が生きていた時もこんな感じの生活が続いていたのだろうか? 付き合い始めて一年で彼女は死んでしまった。彼女とはずっとうまくいっていたような気がする。だがそれはたったの一年間だった。今の彼女、つまりアンドロイドの彼女と暮らし始めてもう二年になろうとしていた。ときめきのようなものは微塵も感じられなくなっていた。今日は昨日の続きで、明日は今日の続きという生活がずっと続いていた。明日もきっと平凡な一日を過ごすのだろう。彼女との暮らしがずっと続けば良いと思っていた自分は何だったのだろう? とにかく、いつまでもこんなことをしていられない。新しい人生を始めなければならない。

 

 失くした恋人を取り戻したいと言っていた依頼主のレンタルが打ち切られた。二年続いた。比較的長く続いた方だと思う。オンラインで契約完了の処理を済ませるとすぐに空きになったアンドロイドのIDが記入された次の契約書が転送されて来た。クリックして今度の依頼主のリクエストをモニタに表示する。顔の輪郭の3Dデータが表示される。返却されたアンドロイドにリクエストされた顔を再現するために必要な素材の形状と厚みを計算する。一週間足ったら、次の依頼主のレンタルがスタートする。今度はどれくらい続くだろう?

浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)

 笏を手にした恐ろしい形相の閻魔大王が目の前に座っていた。私の人生の是非が言い渡されようとしていた。

「それでは始めよう。あなたは生前に詐欺を働いていましたね? それで何人もの老人からお金を巻き上げている。還付金がありますよと言って口座の暗証番号を聞き出し、有り金すべてを引き出して自分のものにしていた。間違いありませんね?」

老人の電話番号が書かれたリストを高い金を払って入手した。片っ端から電話して、引っ掛かった奴らから回収した。投資した金と自分の費やした労力に対して相応の報酬を手にしたというだけのことだ。私一人だけがいい思いをしたというのではない。それにこんなことで騙される人間の方がどうかしている。どうせ老い先短いのだから、これから生きて行かなければならない人間の役に立った方が良いというものだ。

「私がやったんじゃないですよ」

そんなに悪いことをしたとは思っていないので、ついそう言ってしまった。

「じゃあ誰がやったのでしょうね?」

「そんなこと知りませんよ」

容疑を否認する罪人には慣れているらしく、閻魔大王は余裕の表情をしていた。

「私は浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)を持っています。あなたが生前に行ったことはすべてこの鏡に映し出されます。あなたが老人に電話をかけている姿も、聞き出した暗証番号を使って預金を引き出す様子も映し出されています。これでも罪を認めませんか?」

その鏡にはかつての私の行為がそのままに映し出されていた。

「それ、フェイクじゃないですか?」

私は突っぱねることにした。どうせ有罪になって地獄へ堕とされるのなら、できるだけ抵抗してみようと考えた。私を有罪にする決め手の映像が本物だと証明できないのなら、あるいは無罪になって天国に行けるかもしれない。

「フェイクじゃないですよ」

「フェイクじゃないことをどうやって証明できるのですか?」

私は閻魔大王に言った。本物の画像とフェイク画像は見た感じでは区別がつかない。人々はすぐに騙されてしまう。ちょっと前までは録画された映像は決定的な証拠になり得たが、技術が進歩しすぎて今では証拠としての価値を失くしてしまっている。

「これがフェイク画像だったとしたら、マイクロンソフトのツールを使って合成した画像と元の画像の境界を検出することができます。ソフトウェアが人間には判別できない微妙な濃淡の違いを検出するのです。ですからツールが境界を検出できないのであれば本物ということになります」

「マイクロンソフト・・・」

閻魔大王からそんな説明を聞くとは思わなかった。こんなところに先端技術に精通している連中がいるとは思わなかった。

「それにコンテンツ作成者が添付するハッシュ値や証明書もメタデータの一部として含まれています。どう考えてもこれは本物です」

ハッシュ値・・・」

ハッシュ関数を使って元のデータを決まった長さの文字列に変換した値です。データの改ざんを防ぐために使います」

閻魔大王はご丁寧にも私にハッシュ値の説明をしてくれた。

「そうですか。わかりました。その画像は本物ですね・・・」

私は観念して言った。だが一つ気になることがあった。コンテンツ作成者? コンテンツ作成者っていったい誰のことなのだ?

「まだ聞きたいことがあるようですね?」

閻魔大王はゆっくりと諭すように言った。私は彼の言葉を待っていた。

「コンテンツ作成者はいったい誰なのか、あなたは知りたがっています」

私は頷いた。

「あなたは誰か知っています」

そうか、やはりそうだったのだ。

「コンテンツ作成者はあなた自身です。あなたの良心と言い換えても良いでしょう。あなたの良心が、あなた自身を裁くために用意したものなのです」

閻魔大王は言った。私は犯罪に手を染めた時からずっと、自ら地獄行きを望んでいたようだった。

茶色のパンダ

「あれ何?」

「パンダ・・・かな?」

「えっ? でも茶色だよ?」

パンダコーナーでは茶色のパンダが一心不乱にタケノコをむさぼっていた。辺りにはタケノコの皮が散乱していた。足を投げ出し、お腹を剥き出しにしてタケノコをむさぼるその姿には野生動物が持つ一種の神々しさのようなものは微塵も感じられなかった。それはリビングに寝そべり、間断なくポテトチップスを口に運びながらテレビを視聴する無精で怠惰な人間そっくりに見えた。本当は着ぐるみで中に人間が入っているのかもしれなかった。だが、それにしてはおかしい。茶色のパンダの着ぐるみなんて、あるはずがない。

「なんか、あんまりかわいくないね」

隣に立っていた娘が言った。正直な子だと思った。実際そうだった。娘に限らずパンダコーナーに集まった大勢の人々の表情には、期待外れのものを見てしまったというがっかり感が等しく混じっていた。せっかく時間を割いてここまでやって来たというのに、あそこにいる残念な生き物は何だ? 誰もがそう思っているに違いなかった。

「あれはクマさん?」

近くにいた子供が母親に聞いていた。茶色だからな。少年よ、君は正しい。私もそう思った。母親は困惑した表情を浮かべていた。子供に言い聞かせるべき言葉が見つからないようだった。

「あのクマさん、いつまで食べているの?」

娘がトゲのある言葉を放った。少年の言葉が娘に伝染したようだった。娘よ、それはクマではない。だが、その誤りを私は正さなかった。なんだか労力の無駄のような気がした。ただひたすらにタケノコをむさぼっている茶色のパンダを擁護する理由が私には一つも見当たらなかった。

「クマじゃないって」

誰かの声がした。私は周囲を眺めてみたが、そこには一様に残念な表情で茶色のパンダを見ている人々しかいなかった。

「そこじゃないって、こっちだよ」

声に導かれて正面を見ると、タケノコをむさぼり食う茶色のパンダと目が合った。

「お前が話しかけているのか?」

「初対面の相手に向かって『お前』って失礼じゃないですか?」

パンダは私に言った。そうかもしれない。ちょっと失礼だった。

「ごめんなさい。悪気はなかったのです。ただあまりにびっくりしてしまって」

「気持ちはわかりますよ。いきなりパンダに話しかけられると誰もが驚くものです」

茶色のパンダは私の気持ちを察してくれたようだった。でも、本当にパンダなのだろうか?

「だからクマじゃないってさっきから言っているじゃないですか?」

茶色のパンダは少しむきになっているようだった。

「生まれた時からこの色なのです。仕方がないじゃありませんか?」

茶色のパンダは切々と訴えかけて来た。

「小さな頃から、『あいつパンダのくせに茶色い』とか言われて、ずっと差別されて来たのです。普通のパンダに生まれて来たかったと何度思ったことでしょう」

茶色のパンダは続けた。なんだか、少しかわいそうだと思った。

「あなたにわかりますか? 茶色のパンダに生まれて来た者の苦しみが。パンダになりきれないなら、いっそのことクマになりたいと思いましたよ。それでクマのところに行って言いました。私を仲間にしてくださいと」

「で、どうでしたか?」

別に聞きたい訳ではなかったが、何か聞かないと悪いような気がした。

「『お前みたいに目の垂れたクマなんていねぇ』と言われました。私はいったいどうしたらいいのでしょうね? パンダにもクマにもなれない」

「クマンダというのはどうですか?」

「何ですか? それは?」

「いや、クマとパンダのハーフということで」

「あなた私をバカにしていますね? ライオンと虎を掛け合わせたライガーとかならいいですよ。かっこいいから」

「すみません。つまらないことを言ってしまって」

どう取り繕えば良いのかわからなかった。茶色のパンダと話し始めてから事態は悪化の一途をたどっていた。

「あっ、パンダだ! お母さん、かわいいパンダさんがいるよ。図鑑で見たのとおんなじだよ」

通りかかった小さな男の子がそう言った。茶色のパンダはあっけにとられていた。その男の子は興味津々の眼差しで茶色のパンダを見つめていた。

 

「おい、人間!」

「はい、なんでしょうか?」

「俺は仕事をする」

そう言って茶色のパンダはタケノコをむさぼり食うのをやめ、ボールやタイヤを使って遊び始めた。それを見た人々は喜んだ。あれは本当にパンダなのかと疑惑の目で見ていた人たちは、愛らしい姿で遊ぶパンダを見て満たされた気持ちになったようだった。ちょっと茶色いけどやっぱりパンダだ。ここまでやって来て良かった。そういう気持ちが茶色のパンダにも伝わったのか、ますます動きが活発になっていった。そして訪れた人々も茶色のパンダもみんな楽しいひと時を過ごすことができた。

 

 茶色のパンダを喜ばせた少年は色覚に異常を持っていたのだろうか? それとも色の違いは彼にとっては些細な問題だったのだろうか? いずれにしても今日がとても良い一日だったことに変わりはなかった。

地球温暖化と花咲か爺さん

 日本各地で満開の桜が見られなくなった。翌春に咲く花芽は夏に形成された後、いったん休眠に入る。そして冬になって低温にさらされると休眠から目覚めるのだが、温暖化の影響によりこの休眠打破がうまく行えず、咲き方にばらつきが生じてしまったらしい。八十パーセント以上の花がいっせいに開花しているのを見て、私たちは満開の桜の美しさを感じ取っている。咲き方がまばらであったり、葉っぱが混じっていたりすると物足りなさを感じてしまう。桜の並木道を通り過ぎる人々は、かつて求めていた美しさや儚さを見出すことのできない汚らしい葉桜を残念な気持ちで見上げていた。それから数年が経過すると誰も満開の桜を期待することはなくなった。今では一年を通して、それが桜の木であることに気付く人はいなくなってしまった。花鳥風月とか、四季のある美しい日本とか、そんな風景はもう何処にも見当たらなかった。鳥を気に留める人々が今でもいるだろうか? ゴミをあさる老獪なカラスを見て嫌な気分になるだけだ。月を見上げる人々がいるだろうか? 夜も光に溢れた都市部では月明りに気付くこともなかった。そして今、花も失われてしまった。

 この有り様を見た「花咲か爺さん」は悔しくて仕方がなかった。あの灰があったならと考えていた。ポチを埋めた場所に育った木で臼を作って、その臼を燃やしてできた灰。振りかけるだけで見事に花を咲かせた。それはポチが死んでからの一連の出来事によって生き物に必要なプロセスを凝縮した特別な灰であった。それを浴びた植物は凝縮されたプロセスを瞬時に実行する。花芽を形成し、休眠打破を行い、いっせいに開花する。ポチのささやかだが太い一生が作り出した生命の秘術が込められた魔法の灰と言っても良かった。それなのに自分の日頃の行いが見事な花を咲かせているのだと勘違いしていた。大量生産できていれば、地球温暖化により失われてしまった満開の桜を取り戻せるのにと爺さんは考えていた。それは偉い殿様だけのためにやるのではない。爺さんは殿様に褒美をもらって喜んでいたかつての自分を恥じていた。花鳥風月をすっかり失くしてしまった人々のすさんだ生活を侘び寂びやトキメキのあるものに変える。自分が褒美をもらうためではなく、貧しくとも生きていれば良いこともあるのだと人々が感じられる暮らしを取り戻すために、この身を捧げることができたならと爺さんは考えていた。

 

 爺さんがそんなことを考えていると、目の前にポチそっくりの犬が現れた。そしてあの時と同じように「ここ掘れワンワン」と叫んでいた。自分は何故か奇跡の犬とめぐりあう運命にあるのだと爺さんは思った。そして犬の指し示す場所を掘ってみると大量の小判が眠っていた。こんなことで喜んではいられない。日本中で失われてしまった桜を取り戻すためには犬一匹に由来する灰では足りないだろう。もっとたくさんの灰が必要だ。そのためにはまずはポチを量産しなければならない。そう考えた爺さんはクローン研究所の主任研究員に相談した。そして百匹のクローン犬が作られた。百匹の犬はいっせいに「ここ掘れワンワン」と叫んでいた。犬の声に従って爺さんが掘ってみると、やはり小判の山が見つかった。だが爺さんは考えた。わし一人で百匹の犬の相手は無理がある。この先、いじわる爺さんに殺された犬を埋めて、そこで育った木を切り倒して臼にして、餅をついて、いじわる爺さんが燃やしてしまった臼の灰を拾い上げて、ようやく目的が達成される。一匹でも十分なイベントが用意されている。それを百匹分やるなんて到底無理だ。しかも日本全国ということになると百匹でも足りないかもしれない。

「わし一人ではどうすることもできないのか?」

絶望した爺さんを心臓発作が襲った。

「爺さん! 爺さん! 爺さん!」

婆さんの知らせにより爺さんは救急病院に搬送されたが、治療の甲斐なく帰らぬ人となった。

「爺さんの意志は私が継ぐ」

そう決心した婆さんはクローン研究所に依頼して、爺さんの髪の毛からクローン爺さんを作り、培養液の中で育てているらしい。研究所の中では己が使命をわきまえた百匹の犬が培養液の中で育てられている爺さんを見守っているのだという。そしていつの日にか、百体の花咲か爺さんが出動し、満開の桜を再び私たちに見せてくれることだろう。

エウロパの海

 眼下にエウロパの氷の大地が広がっていた。氷は幾度となく割れていて、その隙間から水が噴き出すこともあった。氷の下には海がある。分厚い氷に閉ざされたエウロパの海。木星の重力の影響を受けてエウロパの内部は活性化しており、海底からは熱水が噴出していると考えられている。地球の熱水噴出孔と同じであれば、そこに生命が存在するに違いないという確信が私たちをここまで運んで来た。探査船はエウロパの周回軌道に入っていた。エウロパの反対側には黄土色とクリーム色の混ざった木星の大気が見えた。地球三個分の大きさを持つ大赤斑がじっと私たちを見ていた。降り立つ地表のない巨大なガス惑星をこんなに近くで見る機会もこれが初めてだった。

「まもなく候補地の直上です。機材をエウロパに降ろします」

「了解です」

私たちは分厚い氷を砕き、その下に広がる深い海を潜り、この星を隅々まで調査しようと考えていた。そのために必要とされるあらゆる機材を積んでここまでやって来た。探査船から掘削機を降下させる。氷の上に無事着地する。リモートで捜査して位置を調整する。掘削機の先端が氷に対して垂直になる。作業を開始する。掘削機は回転しながら下方へと進んで行く。氷の厚さは三キロメートルと推定されている。木星の縞模様を見ながら、作業が終わるのを待つ。大赤班は相変わらずじっとこちらを見ている。

「いったい何をしにこんなところまでやって来たの?」

そう問い掛けられている気がした。掘削機の位置をモニタで確認する。深さ三キロメートルを過ぎている。しばらくすると掘削機が手ごたえを失くす。どうやら海に到達したようだ。海水を採取して分析する。塩化ナトリウム、塩化マグネシウム、硫酸カルシウムがイオンとなって溶け込んでいる。地球の海と組成はあまり変わらないようだ。掘削機を引き上げる。今度は潜水艇の出番だった。

 

 潜水艇は沈降を続けている。ライトで周囲を照らし、カメラでその様子を映し出しているが、何も映らない。地球の海であればマリンスノーが静かに降り積もっているだろう。それは太陽に依存して生きるプランクトンの残骸であり、地球に比べるとずっと遠くにあって貧弱な光しか届かず、しかも分厚い氷に閉ざされているエウロパの海には存在しないものだった。でもきっと硫黄化合物から有機物を作り出す生命が熱水噴出孔にいるはずだ。。潜水艇は静かに海を降って行った。もう八十キロメートル潜っている。突然、カメラからの映像が途絶える。故障したのだろうか? 予備のカメラに切り替えるが状況は変わらない。カメラだけでなく温度センサも壊れたようだった。このままでは調査にならない。仕方なく潜水艇を引き上げてみる。船体は激しく損傷していた。何もいないはずの海底で何が起きたのだろうか?

「立ち去りなさい」
女の人の声がした。誰もいないはずの星で誰かが私に話しかけていた。

「あなたは誰ですか?」

私は声の主に向かって尋ねた。沈黙が続いた。誰もいない世界ではあたり前だった沈黙が、いつの間にか拒絶を含む沈黙に変わっていた。

「私たちをそっとして置いてください」

また声が聞こえた。

「私は地球から遥々やって来ました。地球の外にも生命がいることを信じてここまでやって来ました。もしあなたがこの星の住人であるなら、一目だけでも構いませんのでその姿を見せてもらえないでしょうか? それが叶うならおとなしく立ち去ります」

それは私の本心だった。私たちは広い宇宙の中で孤立した存在ではないという思いが、私を支えていた。

「わかりました」

返事と共に鍛え上げられた肉体を持ち立派なあごひげを貯えた壮年の男性と薄桃色の衣装に身を包んだ若く美しい女性が現れた。

「私たちはかつて神話の時代に地球で暮らしていました。神も英雄も住めなくなった地球を離れて今はひっそりとここで暮らしているのです」

 

「大丈夫か?」

気が付くと私はエウロパを周回する母船に戻っていた。

「ひどい事故だった。応急処置は済ませたが、ちゃんとした治療を受けなければならない。すぐに地球に引き返そう」

潜水艇が損傷した。あれは事故だったのか? 私は今までどうしていたのだろう? あの人たちは誰だったのだろう? 探査船はエウロパの周回軌道から離れる準備に入っていた。大赤斑が私を見ていた。

「そっとして置いてくれてありがとう」

そう言われたような気がした。

遺伝子組み換え蚊

 ひどい伝染病が流行っていた。人から人へ直接感染することはなかったが、病原菌を蚊が媒介していた。地域によっては人口の二割が亡くなっていた。異常事態だった。戦争でも、こんなに死ぬことはないだろう。だが病原菌やそれを運ぶ蚊には殺意はなかった。それは自然の営みそのものだった。雨が降り、風が吹く。暖かい陽の光が窓から差し込んで来る。並木道のハクモクレンが春の訪れと共に真っ白な花を咲かせる。虫たちが花から花へと飛び回り、蜜を集める。牛が草を食む。子供たちが公園に集まって遊んでいる。寿命を迎えた老人が死に、新しい生命が産まれる。そうした一連の事象と共に病原菌もまた世界に存在し、それが人にとって良いものか悪いものかなど気にせずに蚊が運んでいた。人間をたくさん殺しているのは病原菌の存在というよりは、人間の生死に対するその無関心だった。殺そうと思っている訳ではない。恨みとか犯行の動機がある訳ではない。だが肉親を亡くした人々は深い哀しみに打ちひしがれていた。政府の感染対策は遅れていた。有効な手立てが見つからないでいた。なんでもいいから考えろと罵声が飛んでいた。内閣支持率は急降下していた。このままでは選挙を戦えないと前回の選挙で接戦の末になんとか議席を掴んだ議員は焦っていた。首相の首を挿げ替えればイメージが回復できるかもしれないという不穏な空気が与党の中に流れていた。

「感染してしまったら有効な治療法がない。抗生物質を投与して症状を抑えることしかできない。それまで体力が持てば良いが、子供や老人が持ちこたえるのは無理がある」

「感染を止めることはできないのでしょうか?」

「冬になれば蚊もいなくなるが、また暖かくなれば同じことだ。同じことが繰り返される。熱帯であれば一年中感染の恐怖に怯えていなければならない。ここが熱帯でなくて良かったと思うしかない」

「遺伝子操作で何とかならないだろうか?」

被害が深刻な国ではすでにオスの個体に致死的な遺伝子を組み込んで根絶やしにしてしまおうという研究が進んでいた。

「ここまで被害が拡大してしまっては仕方がない」

人間の生き血を吸いに来るのは産卵前に栄養が必要なメスだけだから、遺伝子操作を加えたオスの蚊を野に放っても害はなかった。このオスが広まれば蚊は子孫を残すことができなくなり、やがて死滅してしまうだろう。そして実際に遺伝子操作を受けたオスの蚊が大量にばら撒かれた。効果はすぐに確認できた。遺伝子組み換え蚊が撒かれた地域では伝染病による死者が減り始めていた。

「どうやら成功したようです」

対策室は歓喜に包まれた。人々を救うためにずっと対策に取り組んで来た。そしてようやく効果が見込めそうな対策が見つかったのだった。

「もうしばらく様子を見てみよう。それから全国に展開しよう」

対策室長は言った。対策室の全員がその効果に期待していた。

 

 それから三か月後、遺伝子組み換え蚊が放たれた地域から対策室の予期していなかった報告が相次いだ。

「蚊が巨大化している?」

巨大化した蚊が人や犬に襲い掛かっている画像がネットに拡散していた。B級映画か手の込んだフェイク画像を見ているようだった。すでにK地区とR地区とS地区は巨大化した蚊が至るところに出現しており経済活動もままならないようだった。

「すでにK地区の住民は避難を始めています。地域一帯に瘴気が漂っているという噂もあります」

病原菌を媒介する蚊を駆除しようとして、巨大な蟲が跋扈する世界を出現させてしまった。きっと遺伝子操作が災いしたのだろう。やはり自然の営みに反するようなことは慎まなければならないのだ。

「このままでは巨大蚊による被害が拡大する一方です。なんとかしなければ」

「大丈夫だ。すでに対策は立案している」

「対策?」

「我が国の英知を結集した巨大人型人工生命体がもうすぐ実戦投入される手筈になっている。巨大蚊なぞあっという焼き払ってくれるわ」

室長は自信ありげにそう言った。私は光る槍を手にした巨大人型人工生命体が隊列をなして巨大蚊を焼き払う光景を想像していた。もしかしたら機体中央から破格のビームを照射することのできるアレかもしれなかった。勇敢で心優しい少女がこの世界を救ってくれるのは、ずっと先になりそうな気がした。