いつの間にか、妻が巨大ロボになっていた。いつからそうなのか、よくわからなかった。今朝、気付いたが、もしかしたら昨日からそうだったかもしれない。あるいはもっと前からそうだったかもしれない。彼女との間に良好なコミュニケーションを維持して来たという自信はまるでない。夫婦関係はいつしか希薄で空虚なものとなっていた。妻が巨大ロボになったのは、その当然の帰結であったかもしれない。あるいは彼女の無言の抵抗かもしれない。そうした軽微とは言えない状況の変化にもかかわらず、日常生活は変わりなく続いていた。私は仕事に出掛け、帰って来ると妻の作った料理を食べた。時々、妻の顔を覗き込んでみた。ひし形をした黄色い切れ長の目は平坦でつかみどころがなく、そこから妻の本意をうかがい知ることは難しそうだった。固く閉じられた口元には笑いはなかった。そもそも口の開いたロボットなんていないのだ。彼女はロボットになることで、微笑みを自ら放棄してしまったのかもしれない。でも以前からそんな感じだったかもしれない。会話のないリビングルームでテレビは一日の出来事を伝えていた。世の中では今日も誰かが悪事を働いていた。特大のホームランを打った人がいて、素晴らしいゴールを決めた人がいた。今日も昨日と同じで、明日も今日と同じだろう。そう思っていたが、実際には無表情で無機質な妻の姿は私の心を少しずつ浸食していた。私はいつしか抑えきれない衝動を抱えてしまっていた。
<操縦してみたい>
ずっと巨大ロボと一緒にいるのだ。男なら誰でもそういう気持ちになるに違いない。巨大ロボと一緒にいて、操縦したいと思わない男などいるはずがない。でもそんなことが許されるのだろうか? 妻にそんな大胆なことが言えるだろうか? それから苦闘の日々が続いた。目の前に巨大ロボがいる。操縦したくてたまらない。私は悶々としていた。もしかしたら、プラスチックでできたマニュアルをめくって必死にロボットの操作手順を調べているアニメの主人公のようになれるのではないか? いつもただ見ているだけだった。今こそ、行動を起こす時なのかもしれない。受け身だったこれまでの人生を捨てて、未知の世界へと飛翔する。今がその時なのだ。そうやって気持ちを奮い立たせようとがんばってみたが、妻にはなかなか切り出せなかった。だが、操縦したいという衝動も容易に抑え切れるものではなかった。ある日、とうとう我慢できなくなってしまった私は強引に操縦席に座ろうとした。
「何をするのよ!」
無口な妻が、あるいは無口な巨大ロボが、声を張り上げて抵抗していた。
「一度でいいから操縦させてくれ!」
私は必死に懇願していた。
「いつまでもあなたの思い通りになると思ったら、大間違いよ!」
妻は叫んだ。思い通りだなんて。いや、妻が思い通りになるなんてこれっぽっちも思っていない。私はただ思い通りに巨大ロボを操縦したいだけなのだ。でも妻は嫌がっている。仕方がない。ここは彼女の意思を尊重するしかなさそうだった。
「ごめん。僕が間違っていた」
私は心から謝罪した。
「わかればいいのよ」
妻はポツリと言った。確かに今までの私は身勝手すぎたような気がした。すべて私のせいなのだ。
「ちょっとだけなら、操縦してもいいのよ」
しょんぼりしている私を見かねてか妻は言った。
「本当?」
その時、私は天にも昇る気持ちだった。憧れの巨大ロボを操縦できる日がとうとうやって来たのだ。まさに人生最良の日と言えるかもしれない。
「そんなに瞳をキラキラさせて、あなたって子供みたいね」
妻は言った。私は妻の気が変わらないうちにと思って、さっそく操縦席に座った。少しひんやりとしていた。ヘルメットをかぶり、スイッチを押した。すぐに周囲が全方位的に状況を見渡せるスクリーンに切り替わった。死角のない情報がリアルタイムに伝達されて来る。それから足元のアクセルを踏んで少し感触を試してみた。
「すごいパワーだ!」
私は感動していた。
「準備はいいかしら?」
妻の声に応えて私は操縦桿を手元に引いた。力強いうなり声と共に巨大ロボが始動した。
「素晴らしい」
巨大ロボは大地にしっかりと立っていた。操縦席から見る街並みは素晴らしかった。
「これから私たちでこの街を守って行かなくてはならない」
妻は言った。そうだ。感動ばかりしている場合ではない。私は重大な責務を背負ったのだ。人々の暮らしを守るためにベストを尽くさなければならない。
「そこに青いボタンがあるのわかる? それを押してみて」
妻は言った。これかと思って、その青いボタンを押してみた。みるみるうちに巨大ロボは変形を始めた。
「これは?」
「飛ぶわよ」
妻は言った。そして轟音と共に巨大ロボは空高く舞い上がった。いや、もう巨大ロボではない。それはいつの間にか飛行形体へと変わっていた。
「すごい! なんてすごいんだ!」
大空を駆けながら私は思った。
「君と結婚できて本当に良かったと思っている」
私は心からの感謝の意を伝えた。
「あなた。さっきより目が輝いているわね。そういうところとても好きよ」
「僕もだ。君のことが大好きだ」
見下ろせば緑の大地が広がっている。家も車も豆粒のようだ。空はどこまでも青く、清々しい気分だった。そう思った瞬間、遠くの空にキラリと光るものがあった。
「あなた! 油断しないで! レーダーを見るのよ」
妻に言われてレーダーを見ると、こちらに近付いて来る機影が三つあった。
「さっそくお出ましになったわね」
「どういうこと?」
何が何だかわからない私は質問を投げかけた。
「きっとウェストリアの差し金に違いない。あなた。油断しないで!」
「了解した。でも、どうすればいい?」
「照準を合わせて、敵機が中に入ったら、赤いボタンを押して!」
「押すとどうなるの?」
「敵機めがけてビームが照射されるのよ!」
「ビーム!!!」
その時、私は非常に興奮していた。なんて素晴らしい妻だろう。ビームまで持っているなんて。
「来たわ。撃って!」
私は言われるままにビームを発射した。敵機は瞬く間に粉砕された。
「すごい。さすがだわ!」
「君のおかげだよ」
その時、私たちは心からお互いを必要とし、理解し合っていることを確認した。
「これからもずっと一緒にいてください」
あらためて私は言った。
「恥ずかしいから、そんなこと真顔で言わないでくれる?」
妻は少し照れているようだった。西の空では太陽が傾き始め、その姿を地平線に隠そうとしていた。真っ赤な夕焼けが一つになった私たちを祝福しているようだった。