ひどい伝染病が流行っていた。人から人へ直接感染することはなかったが、病原菌を蚊が媒介していた。地域によっては人口の二割が亡くなっていた。異常事態だった。戦争でも、こんなに死ぬことはないだろう。だが病原菌やそれを運ぶ蚊には殺意はなかった。それは自然の営みそのものだった。雨が降り、風が吹く。暖かい陽の光が窓から差し込んで来る。並木道のハクモクレンが春の訪れと共に真っ白な花を咲かせる。虫たちが花から花へと飛び回り、蜜を集める。牛が草を食む。子供たちが公園に集まって遊んでいる。寿命を迎えた老人が死に、新しい生命が産まれる。そうした一連の事象と共に病原菌もまた世界に存在し、それが人にとって良いものか悪いものかなど気にせずに蚊が運んでいた。人間をたくさん殺しているのは病原菌の存在というよりは、人間の生死に対するその無関心だった。殺そうと思っている訳ではない。恨みとか犯行の動機がある訳ではない。だが肉親を亡くした人々は深い哀しみに打ちひしがれていた。政府の感染対策は遅れていた。有効な手立てが見つからないでいた。なんでもいいから考えろと罵声が飛んでいた。内閣支持率は急降下していた。このままでは選挙を戦えないと前回の選挙で接戦の末になんとか議席を掴んだ議員は焦っていた。首相の首を挿げ替えればイメージが回復できるかもしれないという不穏な空気が与党の中に流れていた。
「感染してしまったら有効な治療法がない。抗生物質を投与して症状を抑えることしかできない。それまで体力が持てば良いが、子供や老人が持ちこたえるのは無理がある」
「感染を止めることはできないのでしょうか?」
「冬になれば蚊もいなくなるが、また暖かくなれば同じことだ。同じことが繰り返される。熱帯であれば一年中感染の恐怖に怯えていなければならない。ここが熱帯でなくて良かったと思うしかない」
「遺伝子操作で何とかならないだろうか?」
被害が深刻な国ではすでにオスの個体に致死的な遺伝子を組み込んで根絶やしにしてしまおうという研究が進んでいた。
「ここまで被害が拡大してしまっては仕方がない」
人間の生き血を吸いに来るのは産卵前に栄養が必要なメスだけだから、遺伝子操作を加えたオスの蚊を野に放っても害はなかった。このオスが広まれば蚊は子孫を残すことができなくなり、やがて死滅してしまうだろう。そして実際に遺伝子操作を受けたオスの蚊が大量にばら撒かれた。効果はすぐに確認できた。遺伝子組み換え蚊が撒かれた地域では伝染病による死者が減り始めていた。
「どうやら成功したようです」
対策室は歓喜に包まれた。人々を救うためにずっと対策に取り組んで来た。そしてようやく効果が見込めそうな対策が見つかったのだった。
「もうしばらく様子を見てみよう。それから全国に展開しよう」
対策室長は言った。対策室の全員がその効果に期待していた。
それから三か月後、遺伝子組み換え蚊が放たれた地域から対策室の予期していなかった報告が相次いだ。
「蚊が巨大化している?」
巨大化した蚊が人や犬に襲い掛かっている画像がネットに拡散していた。B級映画か手の込んだフェイク画像を見ているようだった。すでにK地区とR地区とS地区は巨大化した蚊が至るところに出現しており経済活動もままならないようだった。
「すでにK地区の住民は避難を始めています。地域一帯に瘴気が漂っているという噂もあります」
病原菌を媒介する蚊を駆除しようとして、巨大な蟲が跋扈する世界を出現させてしまった。きっと遺伝子操作が災いしたのだろう。やはり自然の営みに反するようなことは慎まなければならないのだ。
「このままでは巨大蚊による被害が拡大する一方です。なんとかしなければ」
「大丈夫だ。すでに対策は立案している」
「対策?」
「我が国の英知を結集した巨大人型人工生命体がもうすぐ実戦投入される手筈になっている。巨大蚊なぞあっという焼き払ってくれるわ」
室長は自信ありげにそう言った。私は光る槍を手にした巨大人型人工生命体が隊列をなして巨大蚊を焼き払う光景を想像していた。もしかしたら機体中央から破格のビームを照射することのできるアレかもしれなかった。勇敢で心優しい少女がこの世界を救ってくれるのは、ずっと先になりそうな気がした。