悔いのない人生

「あなたの余命はあと三か月です」

申し訳なさそうに医者は言った。さすがに自分の身体の調子が悪いことはわかっていた。もうすぐ死ぬだろうという気はしていた。死を受け入れる覚悟があるかというとそんなことはない。この世から自分が消滅してしまうことについて、言いようのない恐怖を抱いている。一方で病気の進行に伴う身体の痛みから少しでも早く解放されたいという気持ちもあった。

「もう十分、生きたと言えるのではないか?」

私は自問していた。いや、そうではない。誰か私に囁きかけて来る者がいる。

「お前は誰だ?」

「死神に決まっているじゃないか?」

なるほどと思った。死の匂いを嗅ぎつけて死神がやって来たという訳だった。こいつらは一刻も早く人間の魂を回収したいのだ。

「君の人生は十分、成功したと言えるのではないか?」

死神は言った。確かに私には勝ち組に入ったという自負があった。上場企業に長らく勤めてそれなりのポジションを獲得し、充実した会社生活を過ごした。仕事で得た報酬を投資に振り向け、的確な運用で富裕層と呼ばれるレベルの金融資産を築き上げ、老後は何一つ不自由することなく悠々自適の生活を送って来た。

「それに仕事以外のことについても経験が豊富で教養も深い」

死神は言った。私には好奇心旺盛なところがあって、けっこういろんなことに手を出して来た。世界各国を旅して回ったし、古今東西の映画を鑑賞した。小説や哲学や科学の本をたくさん読んでいる。クラシック音楽に対する造形も深い。今、改めてこれがしたいということは思いつかなかった。私はもう十分に生きたのかもしれない。

「美味しいものもたくさん食べたよね?」

死神は言った。動物にとって食べるというのは極上の喜びに他ならなかった。寿司。天ぷら。鉄板焼き。懐石料理。名の知れた高級店で数々の海の幸山の幸を堪能して来た。古来より権力者の際限のない欲望を充足させるために、お金も労力も惜しみなく注ぎ込まれて発展して来た食文化を十分に堪能して来た。やはり私は十分に生きたのかもしれない。

「それにあなたが死んでも、あなたの後を継ぐ子供たちがいるじゃないか?」

死神は言った。私には三人の息子と二人の娘がいた。子だくさんと言って良い。子供たちはたくましく成長した。そして結婚して孫も合計八人いる。子孫繫栄は確実だ。これから先は子供たちや孫の時代なのだ。年寄りはとっととこの世から退場した方が良いのだろう。私はもう十分に生きた。

「私はもう十分に生きたような気がする」

私は死神に言った。

「そうか。準備はできたようだな。それでは私について来てくれ」

私は死神の後について行った。深い山道をどこまでも歩いた。しばらくすると洞窟に突き当たった。洞窟を抜けると開けた場所に出た。そこには辺り一面に火の灯った蝋燭が並んでいた。この蝋燭の一つ一つが人間の寿命なのだと死神は言った。そして死神は今にも燃え尽きそうな背の低い蝋燭を指さして言った。

「これがあなたの命だ。今まさに燃え尽きようとしている」

私はすべてを了解した。もう思い残すことはない。もう十分に生きた。私の人生はとても素晴らしいものだった。今までの人生を回顧しながら私は思った。その時、私の蝋燭の隣で力強く燃えている蝋燭が目に入った。まだ十分な高さがある。まだまだ人生はこれからといった感じの蝋燭だった。ちょっとうらやましいなと思った。

「隣にある蝋燭はあなたが子供の頃に近所に住んでいた加藤さんのものですよ。なんだか長生きしそうですね」

加藤! あいつか? その時、私は小学生の頃の忌まわしい体験を思い出した。その日は朝から体調が悪かった。風邪を引いたのだろうか? とにかくお腹が痛くて仕方がなかった。なんとかこらえていたが、給食を食べた後に限界が来た。昼休み中、私はそっと教室を抜け出しトイレに行った。まさか学校で大便をすることになるなんて考えてもみなかった。トイレに駆け込み、便器に座った後、激しい音と共に便が体内から迸り出た。出すものを出してしまって、腹痛はなんとか収まったようだった。そして私はおしりを拭き、レバーを操作して便を流した。勢いよく水の流れる大きな音がした。誰かに聞かれるとまずい。でも昼休みだから、みんな遊んでいるはずだ。そう思ってトイレの扉をそって開いた。その時、私の目の前ににやにや笑っている加藤がいた。

「こいつ、ウンコしてやがる!」

そう言って加藤は笑い転げていた。そして私がトイレで大便をしていたことは、その日のうちに学校中に広まった。それからずっと笑い者だった。下級生にも指をさされて笑われた。全部、加藤のせいだった。その加藤が長生きするだと?

「おい、死神! 代わりの蝋燭はないのか?」

「へっ?」

私は戸惑う死神から奪い取った新しい蝋燭に消え入りそうな私の蝋燭の火を移した。

「加藤よりも早く死んでたまるか!」

私は声高に叫んでいた。まだまだ長い人生が続きそうだった。