天国からの手紙

 病室には五歳になったばかりの娘もいた。一緒に公園に出掛けると、遊具を上手に使って活発に遊ぶ子供だった。いつも楽しそうにしていた。病院ではおとなしくしていなさいと言われて、少し戸惑っていた。ここは彼女が元気いっぱい走り回るところではなかった。清潔だが、嗅いだことのない薬品の臭いが漂っている。暖かな陽射しも差し込まないし、心地良い風が髪の毛を揺らしてくれる訳でもない。妻は何かを押し殺したような表情をしていた。まもなく病状について医師から説明があるということだった。家族に用があるということは、つまりそういうことなのだろうと思った。がんが再発したのは誰の目にも明らかだった。やがて看護師を伴って医師がやって来た。医師は淡々と病状の説明を始めた。お腹の中に溜まっていた水から、がん細胞が見つかりましたと言っていた。便が出なくなったのは腸閉塞が原因だと言っていた。何をすれば良くなるというような話が医師の口から出ることはなかった。もう何も打つ手はないようだった。医師は妻と私がそのことを十分に理解するまで説明を続けるつもりのようだった。耐えきれなくなった私は医師に聞いた。

「先生、あとどれくらい生きられるでしょうか?」

病室が沈黙に包まれた。大人たちの会話についていけない娘は少し怯えているようだった。

「長くて、あと三か月です」

妻が顔を伏せて泣いていた。娘は大粒の涙をこぼしている母を気遣っていた。

「お母さん、何か悲しいことがあったの? 莉奈がいるから大丈夫だよ」

娘はそう言っていた。

 

 幼い子供を残していては死ぬに死ねないと思っていたが、末期まで進行したがんが気の持ちようで消えてなくなることはなかった。妻はもっとつらいだろう。彼女はこれから一人で子供を育てていかなくてはならない。

「自分が五歳の時に何をしていたかなんてよく覚えていない。きっと莉奈も同じだろう。お父さんと遊んだことなんてすぐに忘れてしまうだろう」

彼女の方がつらいということを忘れてそんなことを言ってしまう。

「それじゃあ、自分のことを忘れてほしくないと思っているお父さんにお願いがあります」

「お願い?」

「娘のために手紙を書いてください。莉奈が二十歳になるまで、莉奈の健やかな成長を願って、来年の莉奈がどんな様子か想像しながら、思春期になったら、二十歳になったらどんな娘に育っているかを想像しながら、あるいはどんな子に育ってほしいのか、そういうことをよく考えて十五年分の手紙を書いてください。私が毎年、莉奈に読んで聞かせます。お父さんがどんな人だったかを伝えながら莉奈の前で手紙を読み上げます」

そう言いながら、妻はぼろぼろ泣いていた。妻の言葉を聞いて私も目頭が熱くなって来た。まだ私にはやらなければならないことがあった。

 

 私の名前は芹沢莉奈。今日で二十歳になる。五歳の時に父が亡くなった。それからずっと母が一人で私を育ててくれた。小さな頃に遊んでくれた父の姿をおぼろげながら覚えている。褒めてもらったことも、励ましてもらったことも記憶にない。死んでしまったから、そうしたくても出来なかったのだと母はいつも言っている。そんなふうに私は父のいない家庭で育ったが、毎年誕生日になると母が父の書いた手紙を読んでくれる。父は亡くなる前に十五年分の手紙を書いてくれたのだと母は言っている。そして誕生日の夜、母が買って来てくれたケーキを食べながら、私は母が手紙を朗読するのを聞く。

「今年も天国から手紙が届きました。でもこれが最後です。莉奈は今日で大人になります」

母はそう言った。そうか、今年が最後なのかと思った。お父さんがどういうものなのか、私にはよくわからない。でも死ぬ前に二十歳になるまでの私のことを想像して、一通一通手紙を書いてくれた。父の姿を見て育った訳ではない。でもまったく父がいない訳ではない。私にとっては、毎年、天国から届くこの手紙が父そのものだった。

 

「お誕生日おめでとう。莉奈も今年で二十歳になるのですね。子供が成長するのはあっという間ですね。この前まで公園のブランコを元気にこいでいた莉奈の姿を思い出します。きっと美しく成長したことでしょう。大人になった莉奈に何を話せば良いのか、お父さんは少し悩んでいます。子供時代が終わって、いよいよこれから社会の荒波に揉まれて行くのかと思うと少し心配になります。子供の頃は周りにいる家族や友達はみんなやさしくしてくれます。莉奈がとてもいい子だということを皆が知っています。でも社会に出ると少し様子が違って来るのです。世の中の人たちが皆、あなたが幸福になることを望んでいる訳ではないのです。あなたのためによかれと思って行動しているのではないのです。自分にとって利用価値のある人間だけを優遇する人もたくさんいます。好き嫌いで何でも決まり、公正な評価を受けられないということもよくあります。嫌がらせをして来る人もいます。毎日のミーティングでマウントを取って来る人もいます。本当に嫌なことがたくさんあります。でも受け流してください。いろんな人たちがひしめき合って生きているのが社会なのです。多少の不和や軋轢は当然のことだと思って受け流してください。でも人から嫌がらせを受けたからと言って、莉奈は同じようなことはしないでください。莉奈はみんなに親切にしてください。莉奈に親切にされたら、その人は良い気分で一日を過ごせるかもしれません。そうした小さな親切の積み重ねがいつかあなた自身に良い結果をもたらすことになるでしょう。そしていつも笑顔でいてください。まだ小さな莉奈の笑顔にお父さんは随分と励まされました。きっと大人になった莉奈は溢れるような笑顔で周りの人たちを幸せで包み込んでいることでしょう。それから健康には気をつけてください。元気でいられることが一番幸せなのです。病気で死んでしまったお父さんが言うことだからこれは真実です。それから最後にお願いです。お母さんを大切にしてあげてください。お父さんはお母さんを守り切れずに死んでしまいました。莉奈を守ってあげたくてもお母さんを守りたくてもできませんでした。大人になった莉奈はお母さんを守ってあげてください。天国の父より」

手紙を読み終わった母はしばらくうつむいていた。私はそっと手を回して母を抱きしめた。いつまでもそうしていた。