AI百景(23)本物の月

 月が見えた。何億年もの間、ずっと地上の生き物を見守り続けて来た月が見えた。進化による絶え間のない生き物の形質の変化を見守りつつ、決して手出しすることのなかった月が今日も夜空に輝いていた。だが、さっきから私は違和感を覚えていた。何か違う。あれは本当に昨日までの月と同じ月なのだろうか? 何か違っているような気がしてならなかった。

「あれはAIが描写した月なのです」

誰かが言った。遠くの物体を映した時の不鮮明な画像をAIがそれらしい画像に加工してくれると聞いたことがある。携帯端末で気軽に撮影した人物や風景も、気が付けばプロが撮影した画像に引けを取らない素晴らしいものになっている。ただ被写体にカメラを向ければ、最適な画像になるようAIが加工してくれる。今、私が見ている月はそういう性質を持つ月のようだった。

「本物の月はどこに行ってしまったの?」

私は尋ねてみた。AIが画像を加工するのは知っている。でもどうしてそれが見えているのかわからない。もともとあった本物の月がどこかにあるはずだと思った。

「本物の月?」

「昨日まで見えていた月は本物だったはずです」

そう言うと相手は少し考え込んでいた。

「本物の月なんてありませんよ」

ぶっきらぼうに相手は言った。

「人間は3タイプの錐体細胞を持っています。長波長に反応する赤錐体。中波長に反応する緑錐体。短波長に反応する青錐体。それらの細胞が可視光線によって刺激されると何か見えていると感じるのです。でも4タイプの錐体細胞を持っている動物もいるそうです。その動物の見ている風景はあなたが見ている風景とは違うでしょう。さて、どちらが本物の風景でしょうか?」

生き物が持っている固有の細胞に依存して見え方が違って来るということか? 確かにそう言われると私の見ている景色が唯一の正しい景色ではないような気がする。可視光線という括りだって、私たちに見えているものを基準にしている。他の波長域で物を見たなら、もっと違って見えるかもしれない。

「それはわかります。でも私に見える月は私にとっては唯一のものなのです。それは私にとっては本物なのです」

「そうですね。あなたにとってはそうかもしれません。あなたはずっとその仕組みで世界を見て来たのですから。錐体細胞が検出する波長域に制限され、ニューラルネットワークの重み付けで切り取られた世界を本物と思って来たのですから」

ややこしい説明はどうでも良かった。本物なんてないのかもしれない。だが、本物と思えるものが私は欲しかった。

「でも残念ながらあなたが欲するその世界は戻って来ないのです。あなたは不幸にも事故に遭ってしまいました。それで失明してしまったのです」

そうだった。私は失ってしまった視力を取り戻すため、私自身の身体に画像処理システムを組み込んでもらうことを了承したのだった。

「すぐに慣れますよ。しばらくすれば、今、見えている月が本物の月と思えるようになりますよ」

素っ気なく相手は言った。私にとっての本物の月は、もう二度と見ることができないようだった。