AI百景(7)おいしいトマト

「適度に水が足りない方が甘いトマトになるんだよ」

子供の頃、手伝いをしていた私にやさしく語り掛ける父のことを思い出していた。農家を継ぐのが嫌で、名古屋でエンジニアをしていた。必死に勉強してソフトウェアの設計ができるようになった。クライアントの要求する納期はいつも厳しかった。ドキュメントの作成とコーディングは比較的計画通りに進んだが、デバッグで不具合が多発すると一気に時間を取られてしまって、計画が狂ってしまうことが多かった。そんなことをずっと続けていた。農業が嫌で自分で選んだ仕事には違いないが、時々、本当にこれで良かったのかと思うことが多かった。農家の仕事は割に合わないと思って田舎を出た。普通のサラリーマンよりもずっと多くの時間働いてもそれに見合った稼ぎがある訳ではない。それに田舎には何もない。見渡す限りずっと緑が続いているだけだ。都会の喧騒が嫌になった人であれば、田舎にリフレッシュに来て、空気がおいしいとか言ってのんびりとくつろぐこともできるだろう。それはたまにだからそう思うのだ。ずっと緑の中で過ごすことになったら、途端に退屈な生活が待っている。来る日も来る日も自然の真っ只中で、植物を相手に格闘する羽目になる。そこで一生を過ごすことにひどく躊躇いがあった。子供の頃は父の手伝いをするのが楽しかった。手伝っていると思っているのは本人だけで実際には邪魔になっていたかもしれない。額に汗して働く父の姿がとても頼もしいものに思えた。水ストレスを与えた方がトマトの糖度が上がる。そのために茎の太さをみる。ストレスがあるとそこに出て来る。そんなことを教えてもらったような気がする。そして私は今、故郷に向かっている。家を出てから戻ることはなかった。先週、父の具合が悪いと母から知らせがあった。

 

 久しぶりに訪れた我が家でくつろいでいた。自分の育った家にいると何か安心できるものがある。よく知っている部屋の中。よく知っている味噌汁の味。

「ちょっとこっちに来いよ」

父に言われて奥の部屋について行った。父がずっと前から使っている部屋だった。かつてそこには古いステレオ装置とたくさんのレコードがあった。中に入ってみて、私はびっくりした。そこには大画面のモニタが三枚あって、トマトの映像といろいろなグラフが映し出されていた。

「これは何?」

「お前がいない間に農業も随分と進歩したんだよ」

「温室の温度と湿度を常にモニタしている。ネットワークカメラがトマトの様子をリアルタイムに届けてくれる。遠隔操作で水分量もここから調節できる」

「すごいね」

「おいしいトマトは経験と勘でできるものだと信じていたんだがなぁ。でもそれってよく考えてみたら、温度と湿度に気を付けてトマトの茎の太さを見て水の量を調節していただけのことだった。それくらいのことはこうやって機械ですぐにできてしまう。特に最新のAIを内蔵した農業支援システムはとても素晴らしい。AIに話し掛けるだけで、知らないことも教えてくれる。何十年もやって来たことだから、私の方がずっと知識があると思っていたんだがなぁ。世界中の知識を活用するAIには敵わないということが、よくわかって来た」

そう言いつつも父は楽しそうだった。AIはすっかり父のパートナーとして活躍しているようだった。きっと私が手伝えない分、AIが父を助けてくれているのだろう。農家の高齢化が進んでいる。私が言うのも何だが、後継者がいないという問題もある。そういうこともあって自動化が進んでいるようだった。機械化による体力面でのサポートとしての自動化だけでなく、培われたノウハウを活用しておいしい果物や野菜を作り出すといった知的な側面からも自動化が進んでいるようだった。

「仕事はどうだ?」

父に聞かれた。なかなかきついところもあるが、なんとかやっていると答える。家を飛び出すのではなかったという気持ちが喉の奥の方までこみ上げて来る。田舎は退屈に違いない。でも都会が良いというのでもない。仕事が充実しているというのでもない。戻って来て父と一緒にトマトを作る人生でも良かったのではないかと思っている。

「跡継ぎのことは気にしなくていいぞ。健一の好きなようにやれば良い」

そう言われて少し残念な気持ちになる。

「AIがあればなんとかなるからな。トマトのことはAIが全部知っている。俺が死んだらAIに後を継いでもらっても良いと思っている」

私を安心させようとしているのだろうか? 私に戻って来なくても良いのだと伝えたいのだろうか? 父はそう言った。その晩、父が倒れた。すぐに入院することになった。

 

 末期のがんで余命三か月と言われた。病院から実家に戻って来て呆然としていた。今までいったい何をしていたのだろうと思った。こんなになるまで放って置いた自分が何だかひどい人間に思えた。いや、そうではない。実際にひどい人間だった。

「お父さんにトマトの世話を頼まれたけれど、何だかよくわからないので手伝って」

母に言われた。パスワードは父から聞いていたそうだが、コンピューターの扱いがよくわからないようだった。仕方なく私はシステムを起動した。

「こんにちは。田中さん」

AIの音声が響いた。

「あれ? 田中さんとは違うようですね。でもなんとなく雰囲気が似ています」

モニタ正面のカメラでAIは私の姿を認識しているようだった。

「私は息子の健一です」

機械を相手に自己紹介をするのは変な気分だった。

「はい。健一さんですね。知っていますよ。田中さんがいつも話していた息子の健一さんですね」

スピーカーから、そんな言葉が聞こえて来た。

「母が父にトマトの世話を頼まれたのです。でも母はよくわからないと言って、私に委ねたのです。父はトマトのことは全部あなたが知っていると言っていました。あなたに後を継がせたいとも言っていました。そうしてもらえると私も助かります。今でも温度や画像を見て、あなたが水分の調節をしているのだと思います。種をまくとか、壊れた機材を修理に出すとか人手でないとできないことがあれば私が手伝います」

「田中さんはいつもあなたの話をしていました」

AIは壊れてしまったのだろうか? そんなことを私は聞いていない。

「あなたが子供の時に真っ赤に熟したトマトを本当においしそうに食べていたと言っていました。その時にあなたは『僕も大きくなったらおいしいトマトを作って、いろんな人に食べてもらいたい』と言ったそうです。一緒にトマトを作っていた頃のことをとても楽しそうに話していました。でもあなたが大人になってからは、あまり話をしなくなったと言っていました。それでもいつかあなたが帰って来るかもしれない。その時になったら、またおいしいトマトを食べさせてあげたい。そしてもしもあなたが自分の後を継いで行ってくれるなら、自分が今までに培って来たものをあなたに伝えたいと言っていました」

「私にそんな資格なんてないです」

「そんなことはありません。あなたはお父さんの後を継ぐべきです。あなたのお父さんは本当に素晴らしい人です」

「でも父はAIのあなたの方が詳しいと言っていました」

「そんなのは嘘です。数十年地道にやってきたお父さんにネットに落ちている知識が対抗できるはずはありません。私が保有しているノウハウはすべてお父さんから引き継いだものです」

「でも私は父の元をずっと離れていたのです」

「健一さん。あなたはおいしいトマトをいろんな人たちに食べてもらいたいのですよね?」

スピーカーの音声は私の心に突き刺さった。涙がこぼれるのをどうすることもできなかった。ずっとこの土地で生きて行こうと思った。