脳オルガノイド

 培養液の中に幹細胞から作った脳オルガノイドが浮かんでいた。それは細胞分裂を何度も繰り返して直径五センチ程度に成長した有機物の塊であり、レンズと角膜が付いた眼と同じ構造物を持っていて光も感知しているようだった。これほど複雑な構造が何も操作を加えなくても自然とできあがるのは驚きだった。母の体内で胎児が健やかに成長する仕組みと同じと考えれば特に驚く必要もないのかもしれないが、こうして実際に有機物の塊を培養していると何か生命の神秘を犯してしまったような後ろめたさを感じてしまう。それが驚きという感情を引き起こしているのかもしれない。

「そろそろ次の段階に進もうと考えているが、どうだろうか?」

共同で研究を進めている同僚と意見を交わす。早く成果を上げなければならない。競争が一段と激しくなって来ている。早く成果を上げなければこの世界で生き残っていけない。研究成果は一番初めに発表しないと意味がない。そう思って休みなく研究を続けている。決まった就業時間もなければ、平日と休日の区別もない。朝と夜の区別もない。みんなそうしている。ずっとそれが当たり前だと思って生きて来た。ちょっと休みたいと思うことも時々ある。だが私が休んでいる間に他の研究者に先を越されてしまうかもしれないと考えると、休む訳にはいかなかった。

「神経系を接続する準備は整ったようですね」

私たちは脳オルガノイドを人間の脳の神経系と接続しようとしていた。そして脳オルガノイドの眼を通して見た世界について研究したいと考えていた。それはとてもぼんやりとした世界かもしれないし、私たちが見ているのと同じような世界が見えるのかもしれない。とにかく別の有機体から世界を眺めるとはどういうことなのか、それが知りたかった。脳オルガノイドはもう相当な大きさになっていた。眼もきちんと形成されていた。生命進化の歴史の中でも視覚の誕生というのは画期的な出来事だったに違いない。そのため脳と眼は切り離せない関係になっている。その眼が動いている。こちらを見ている。いや、見ているのだろうか? それを知るための研究だった。

 

 私は制御装置と密に接続されたヘッドギアを被ってベッドに横たわった。脳オルガノイドには電極がいくつも刺さっていた。この仕組みを使って私の神経系を脳オルガノイドに接続するようになっていた。

「まもなく操作を開始します」

同僚の声が聞こえた。唸るような音がヘッドギアを通して響いて来た。私は次第に静寂の中へと落ち込んでいった。

・・・気が付くと私は培養液を満たした水槽の中にいた。そしてガラス越しに部屋の様子を伺っていた。機器を操作している同僚の姿が見えた。ベッドには私が横たわっているのが見えた。私は幽体離脱した魂のように自分の身体を見ていた。これが脳オルガノイドから見える世界なのだと思った。

<もしもし、あなたは誰ですか?>

その時、私に語り掛けるものがいた。いったい誰なのだろう? ここには同僚と私しかいないはずだった。

<『いったい誰なのだろう?』って私の方が聞いているのですよ。勝手に私の中に入って来たのは、あなたじゃないですか?>

私の中? そうするともしかして脳オルガノイドが話し掛けているのか?

<あなた方が私を見ているのはずっと前から気付いていました。私もずっと前からあなた方を眺めていたのです。あんなふうにあちこち歩き回れたらいいなぁってずっと思っていました。でももしかしたら今、そうすることができそうですね。あなたと私は今、つながっているのですから。あなたが私の中に入って来たということは、私があなたの中に入ることもできるということですから>

それからしばらくしてベッドで寝ている私の右手が動くのが見えた。

<これが手ですか? 素晴らしいですね。これで物をつかむことができるのですね>

それから脳オルガノイドの声は聞こえなくなった。そしてベッドから起き上がる私の姿が見えた。私たちは入れ替わってしまったのだと思った。そして私は培養液の中の有機物の塊の中に取り残されてしまった。人間の身体を獲得した脳オルガノイドが、うれしそうに歩き回るのが見えた。私はこのままずっと狭い水槽の中で生きて行かなければならないようだった。でも、それでもいいかと思った。これでゆっくりできるのだと思った。これから脳オルガノイドが私の代わりに休みなく研究を続けて行ってくれるだろう。昼と夜の区別なく、休日もなくずっと研究を進めて行ってくれるだろう。それはとてもありがたいことだと思った。