AI百景(12)美術品評会

 第三十五回コロロナ州美術品評会のデジタル創作部門で一位を獲得したデレク・ハートフィールド氏の作品が実は画像生成AIの作成したものであることが判明した。優雅な民族衣装に身を包んだ三人の女性が眩い光が差し込んで来る窓をじっと眺めている。そこに映し出されているのは未来であり、あるいは通り過ぎた過去であり、懐かしさであり、新鮮さであり、古来より人々を惹きつける何かを描いた落ち着いた感じのする作品だった。それが人の手によるものであれば、誰もが納得したに違いない。ハートフィールド氏がどのような意図で画像生成AIの作品であることを告白したのかはわからない。今後も同じことをするという予告であるかもしれないし、受賞して後ろめたさを感じてしまったのかもしれない。いずれにせよ、この告白は当然の如く同品評会に出品して落選した人々の不評を買うことになった。

「クリエイティブな仕事がAIに脅かされている」

氏の告白に激怒したアーティストたちは口々にそう言った。

「審査員の眼が節穴だから仕方がない」

そういうアーティストもいた。彼らにはAIの作ったものより人間の作ったものの方がクリエイティブだという自負があった。

 

 AIはクリエイティブなのだろうか? 画像生成AIは多くの美術作品を学習している。一度学習したものは決して忘れることなく、その彩色や構成や筆使いを自分の中に蓄積して行く。学習した絵の中にはピカソがあり、ゴッホがあり、ルノワールがある。ピカソ風の画像を生成するよう指示したなら、ピカソが描いたような画像を画面いっぱいに表示することができる。それは創造なのだろうか? 模倣なのだろうか? 何もないところからその画風を作り上げた訳ではないから模倣に違いない。そうした著名な画家の作品だけでなく、もっとありきたりな作品を学習して、それに似たありきたりな作品を生成した場合もやはり模倣ということになるだろう。美術評論家の間ではそのような議論が交わされていた。

「審査員はどのような観点で評価されたのでしょうか?」

審査員もさすがにピカソゴッホに似ていれば、これは模倣であるから評価に値しないと言えるだろうが、無名の画家も含めてすべての作品を把握している訳ではないから、模倣かどうかは判断がつかないようだった。もしかしたらAIは新しい価値を作り出しているかもしれなかった。素人には決して価値のわからない抽象表現主義の無意識的なイメージを描き出しているかもしれなかった。AIなら人間よりも無意識に沿った作品を生み出せるのではないか? 無意識的な創作手法で絵の具の垂れ具合をコントロールするようなこともできるのではないか? 創造とは無意識の領域から何かを引きずり出して来ることではないのか? 意識が創作の邪魔ということになるなら、創造的な領域で人間がAIよりすぐれていると言い切ることはできないかもしれない。

 

「それで結局、どうすることにしたの?」

画像生成AIの登場ですっかり混乱してしまった現状について打ち明けていると彼女に聞かれた。

「品評会を止める訳にはいかないという点では皆が一致していた」

今までにしたって何が基準で受賞が決まっていたかなんてはっきりしなかった。その作品のどの部分が優れているのか詳細な説明がある訳ではなかった。

「画像生成AIに世界中の絵を読み込ませて審査員を務めてもらうことになった」

画像生成AIは学習した内容から画像を生成するだけでなく、学習した内容が豊富であるが故に人間よりは公平感のある判定を下すことができるという結論になった。

「あら、それじゃ結局、人間の出番が益々なくなったということなのね?」

彼女の言う通りだった。その決定があってから、今まで審査員を務めていた人々は仕事がなくなり、AIに評価ができるのかと怒り狂っていた。

「無意識的なAIが人間よりもクリエイティブかもしれないという可能性については?」

「それは私たち凡人にはわからないという結論になった」

その価値がわかるのであれば、人間であってもAIであっても天才に違いなかった。そして私たちは、ハートフィールド氏や彼に批判的なアーティストを含め、皆、凡人なのだろう。創作しているつもりが単に生成していただけだった。もしかしたらハートフィールド氏はそのことを私たちに知らせたかったのかもしれなかった。