起業家の夢

 地平線に少し小さめの太陽が昇った。

「もう朝か?」

密閉された居住区の分厚い窓を通して陽の光が差し込んでいた。決して開けることがない点では航空機のそれに似ていた。機能という点では水槽の中を泳ぎ回る魚たちを隔てているガラスよりも厚くて丈夫だった。普段着に着替え、テーブルに座り、支給された食事を摂取する。毎日同じものを口に運んでいる。生体を維持することを最大限に追求した食事であり、そこには楽しみや喜びのようなものは欠片もなかった。味気のない朝食を済ませるとカバンの中を確認し、自動扉を開けて外に出た。外とは言ってもそこは居住区の中に張り巡らされた廊下だった。宇宙船に住んでいるようなものだった。潜水艦よりはマシかもしれなかった。海の底に留まり密閉された狭い艦内の中の何段にも重ねられたベッドで眠るよりはマシな生活に違いない。ふと、そんなことを考えたが何の慰めにもならなかった。

「おはよう」

廊下を歩いていた同僚に声を掛ける。

「やあ、おはよう」

『今日も元気ですか?』『昨日は何をして過ごしましたか?』そんなことを聞く者はいなかった。サーバに格納された映像コンテンツを見る他に娯楽のようなものはなかった。生体を維持するための食料を与えられ、日々居住区の拡張に携わっている。火星への移民なんていったい誰が考えたのだろう? こんなところに住みたい人間なんているもんかと思いながら居住区を拡張して行くのは矛盾しているような気がする。でも仕方ない。これが私に与えられた仕事なのだから。

「もうすぐ一年になるそうだ」

「何が?」

「俺たちがこの惑星に来てからだよ」

「そうか」

「地球では何をしていたんだい?」

「工場で働いていたよ。でもリストラにあって失業した。ずっと仕事がなくて、仕方なくここにやって来た」

火星に流れて来たのは大半が地球での居場所を失くした人々だった。運あるいは稀有な才能に恵まれなかった大多数の人々は年々悪くなる労働条件に甘んじていた。買収された途端に社員の半数が首を切られた企業もあった。ハードワークか職場を去るかどちらかを選べと経営者は冷たく言った。宇宙への憧れを抱いて遥々ここにやって来た酔狂な連中も少しはいたが、大多数は地球で仕事を失くした者たちだった。火星への移民が進む中、地球に住む人々は安全な場所からその様子を伺っていた。テスト段階で宇宙飛行士たちが長期滞在に成功してはいたが、それよりずっと多くの一般市民が暮らして行けるかは未知数だった。居住区が致命的な損傷を受けて、全員死んでしまうかもしれなかった。事故が起きても救助は期待できなかった。地球から助けを出しても間に合うはずもなかった。火星に住む人々の命はそれほど重たくもなかった。そんな死と隣り合わせの惑星で私たちは日々働いていた。

 

「いよいよですね」

長年、労苦を分かち合った側近のデーブが言った。

「並大抵の道のりではなかった。君もよくついて来てくれたな」

「いえいえ、ジェフリー様の決意と情熱の賜物です。後世に残る偉業というものはやはり、強靭な意志と並外れた能力によって成し遂げられるものです」

その通りだと思った。火星への移民が始まってから一年になろうとしていた。一周年の記念すべき式典が現地で開催されることになっていた。来賓として火星を訪問することになった。感無量という他ない。思えば困難の連続だった。経済的に割の合う宇宙船の開発のためには、あらゆる分野での技術革新が必要だった。火星の過酷な環境に耐えられる居住区の開発も大変だった。かつて地球以外の環境で長期に渡って人間が生活したことはなかった。テスト段階で不幸な事故があり、尊い人命が失われた。そうした災難に臆することなく私たちは進み続けて来た。生体に必要な酸素や水や食料を安価に提供できるシステムも作り出さなければならなかった。建築から農業からロケット工学に至るまで、様々な分野の俊逸な才能を揃える必要があった。そのためには大量の資金が必要だった。そして資金を投入した後も、達成困難な数多くの課題を乗り越えるには大変な努力が必要だった。私が経営する数多の企業ではハードワークに耐えられない社員には去ってもらった。買収した企業では容赦なくリストラを断行した。そうした決断がなければ、この短期間で火星への移民という偉大な業績は成し遂げられなかっただろう。そしていよいよ、その苦労が報われる日がやって来た。

「火星を訪れるのは久しぶりですね」

「そうだな。計画が始まって間もない頃、生え抜きのクルーと共に訪れて以来になる」

「火星では居住エリアの拡充が続いていると聞いています。これからも移民が進んで、ジェフリー様の予言された通りの世界が訪れることでしょう」

人類はいよいよ地球を離れて宇宙に飛び出したのだ。かつての大航海時代のように、これからは宇宙という広大な海に進出して行くことになるだろう。火星への移民はその第一ステップと言える。とりあえず今は現地に住む人々と共に喜びを分かち合いたい。

 

 宇宙船は着陸態勢に入っていた。眼下に赤茶けた火星の大地が広がっていた。居住区が少しずつ広がっているように見えた。やがて都市が成立することになるだろう。遠くない未来には第二の故郷と呼べる星になるかもしれない。平坦でない今までの道のりを思い出しながら、ジェフリー・マスク氏は式典の行われるホールに入った。

「火星への移民はずっと私の夢でした。実現してとてもうれしいです。今日はここにいる皆さんと共に喜びを分かち合いたいと思います。長年の夢が叶っていつ死んでもいいくらいです」

火星への移民の実現のためにその生涯を捧げた起業家が壇上に立ってスピーチをしていた。様々な事情で火星に住むことになった群衆がその様子を見守っていた。

「あいつ、ジェフリー・マスクじゃないか?」

人々はざわめき立っていた。地球で自分たちをリストラした張本人がそこに立っていることに気付いたのだった。彼はおびただしい数の人々の首を切っていた。ここに住む大多数の人々は彼に恨みを持っていた。その彼が突然、こんな辺境の惑星にのこのこ現れたのだった。

「あいつのせいで俺たちはこんな寂れた惑星にまで追いやられてしまった」

「今すぐ、あいつを吊るせ!」

記念すべき式典はブーイングに包まれた。セキュリティサービスが起業家を守ろうとしたが、群衆はすでに正気を失くしていた。いつ死んでもいいと言った起業家は目的を達するや否や波乱の生涯を閉じたのだった。