エウロパの海

 眼下にエウロパの氷の大地が広がっていた。氷は幾度となく割れていて、その隙間から水が噴き出すこともあった。氷の下には海がある。分厚い氷に閉ざされたエウロパの海。木星の重力の影響を受けてエウロパの内部は活性化しており、海底からは熱水が噴出していると考えられている。地球の熱水噴出孔と同じであれば、そこに生命が存在するに違いないという確信が私たちをここまで運んで来た。探査船はエウロパの周回軌道に入っていた。エウロパの反対側には黄土色とクリーム色の混ざった木星の大気が見えた。地球三個分の大きさを持つ大赤斑がじっと私たちを見ていた。降り立つ地表のない巨大なガス惑星をこんなに近くで見る機会もこれが初めてだった。

「まもなく候補地の直上です。機材をエウロパに降ろします」

「了解です」

私たちは分厚い氷を砕き、その下に広がる深い海を潜り、この星を隅々まで調査しようと考えていた。そのために必要とされるあらゆる機材を積んでここまでやって来た。探査船から掘削機を降下させる。氷の上に無事着地する。リモートで捜査して位置を調整する。掘削機の先端が氷に対して垂直になる。作業を開始する。掘削機は回転しながら下方へと進んで行く。氷の厚さは三キロメートルと推定されている。木星の縞模様を見ながら、作業が終わるのを待つ。大赤班は相変わらずじっとこちらを見ている。

「いったい何をしにこんなところまでやって来たの?」

そう問い掛けられている気がした。掘削機の位置をモニタで確認する。深さ三キロメートルを過ぎている。しばらくすると掘削機が手ごたえを失くす。どうやら海に到達したようだ。海水を採取して分析する。塩化ナトリウム、塩化マグネシウム、硫酸カルシウムがイオンとなって溶け込んでいる。地球の海と組成はあまり変わらないようだ。掘削機を引き上げる。今度は潜水艇の出番だった。

 

 潜水艇は沈降を続けている。ライトで周囲を照らし、カメラでその様子を映し出しているが、何も映らない。地球の海であればマリンスノーが静かに降り積もっているだろう。それは太陽に依存して生きるプランクトンの残骸であり、地球に比べるとずっと遠くにあって貧弱な光しか届かず、しかも分厚い氷に閉ざされているエウロパの海には存在しないものだった。でもきっと硫黄化合物から有機物を作り出す生命が熱水噴出孔にいるはずだ。。潜水艇は静かに海を降って行った。もう八十キロメートル潜っている。突然、カメラからの映像が途絶える。故障したのだろうか? 予備のカメラに切り替えるが状況は変わらない。カメラだけでなく温度センサも壊れたようだった。このままでは調査にならない。仕方なく潜水艇を引き上げてみる。船体は激しく損傷していた。何もいないはずの海底で何が起きたのだろうか?

「立ち去りなさい」
女の人の声がした。誰もいないはずの星で誰かが私に話しかけていた。

「あなたは誰ですか?」

私は声の主に向かって尋ねた。沈黙が続いた。誰もいない世界ではあたり前だった沈黙が、いつの間にか拒絶を含む沈黙に変わっていた。

「私たちをそっとして置いてください」

また声が聞こえた。

「私は地球から遥々やって来ました。地球の外にも生命がいることを信じてここまでやって来ました。もしあなたがこの星の住人であるなら、一目だけでも構いませんのでその姿を見せてもらえないでしょうか? それが叶うならおとなしく立ち去ります」

それは私の本心だった。私たちは広い宇宙の中で孤立した存在ではないという思いが、私を支えていた。

「わかりました」

返事と共に鍛え上げられた肉体を持ち立派なあごひげを貯えた壮年の男性と薄桃色の衣装に身を包んだ若く美しい女性が現れた。

「私たちはかつて神話の時代に地球で暮らしていました。神も英雄も住めなくなった地球を離れて今はひっそりとここで暮らしているのです」

 

「大丈夫か?」

気が付くと私はエウロパを周回する母船に戻っていた。

「ひどい事故だった。応急処置は済ませたが、ちゃんとした治療を受けなければならない。すぐに地球に引き返そう」

潜水艇が損傷した。あれは事故だったのか? 私は今までどうしていたのだろう? あの人たちは誰だったのだろう? 探査船はエウロパの周回軌道から離れる準備に入っていた。大赤斑が私を見ていた。

「そっとして置いてくれてありがとう」

そう言われたような気がした。