メイドとマーメイド

 私はマーメイド。すぐに死んでしまう人間とは違って三百年生きられる。でも死ねば泡となってしまう私たちとは違って人間には魂というものがあり、死んだ後は天国に行けるのだという。深海に棲む老女にその話を聞いてから、いつしか私は死んだ後は天国に行きたいと思うようになった。でも魂を手に入れるためには人間に愛してもらって結婚する必要があるのだという。どうすれば、人間に愛されることができるのだろうか? そう思って、こっそり人間を観察している。人間の男に愛されるために、人間の女は濃紺のワンピースに白いエプロンのついたエプロンドレスと呼ばれる服を着るのだという。でも、そのためにはまず足を手に入れなければならない。海で暮らすのに尾ひれは欠かせないが、地上では何の役にも立たないし、エプロンドレスを着る時にも邪魔になる。地上で暮らすにはどうしても足が必要になる。そんなことが可能なのか、深海に棲む老女に相談してみた。

「尾を足に変えることはできますか?」

「できるよ。おたまじゃくしが成長してカエルになるのと同じことだ」

なるほど、そういう事例を聞くとできるような気がしてきた。

「我々は人間になることを禁止された生き物なのです。個体発生は系統発生を繰り返すという言葉を聞いたことがありますか? 人間も発生する過程で魚の姿をしているのです。そこから両生類、爬虫類、哺乳類というふうに発達して行くのです。それに対して私たちマーメイドは下半身の発達を禁止された種族なのです。そのロックを外せば、人間と同じ足を手に入れることができます」

「そのロックを解除するにはどうすれば良いのですか?」

「水槽で飼っているおたまじゃくしはカエルにならないという話を聞いたことがあります。どうしてだかわかりますか? カエルになる必要がないからです。エサを与えてもらい、天敵もいない。その環境にいる限り、おたまじゃくしであることに何ら問題はないのですよ。私たちもこの海で暮らす限り、安心して生きて行くことができます。海の中だと尾を持っている方が有利です。だから足が欲しいのであれば、足が必要となる過酷な環境に身を置くのです。おたまじゃくしがカエルになって陸上でも暮らせるように。まずは海から川をさかのぼり、しばらくそこで暮らしてみなさい。そうすれば、いつか身体が変化の必要を感じ取るに違いありません」

 

「おかえりなさいませ、ご主人様」

お客様が来店されると男性の場合は「ご主人様」、女性の場合は「お嬢様」と呼ぶことになっている。ここはカフェではなくて、ご主人様のお屋敷という設定にすると、皆、喜ぶらしい。設定したシチュエーションになりきるということが楽しむための秘訣ということらしい。

「萌え萌えキュン!」

おまじないをかけているメイドがいる。オムライスにケチャップでうさぎのイラストを描いてる。メイドと記念撮影しているお客様がいる。普通のカフェよりも割高な料金だが、皆、喜んで帰って行く。

「仕事には慣れたようだね」

ロッカー室で先輩のメイドに声を掛けられる。いや、実際にはメイドではない。そういう役割を演じているだけなのだ。私は何か勘違いをしていたのかもしれない。海から川をさかのぼって、そこでしばらくおたまじゃくしたちと一緒に暮らして、ようやく足が生えてきた。それから陸に上がり、人間たちの世界に紛れ込んだ。川で一年。陸に上がってから一年。決して平坦な道のりではなかった。そしてようやく濃紺のワンピースに白いエプロンの衣装を着ることのできる職業を見つけて、人間の男性からの求愛を待っているというのに。これでは愛されて魂を獲得して、天国へと至るという目的は達せられそうにない。だいたい私たちに会いに来ている連中というのは、私たちに性的嗜好のはけ口を求めているだけで私たちの人格に対しては興味がないらしい。メイドが愛されると思っていたのは何かの勘違いだったのだ。

「じゃあ、どうすれば愛してもらえるのだろうか?」

思わず、声に出してしまった。先輩はびっくりしていた。

「いったいどうしたの?」

それから私は、マーメイドであることを明かし、魂を手に入れるために人間に愛されなければならないということを必死になって説明した。

「あなたバカじゃないの?」

先輩は言った。

「愛される前に、あなたが愛さなきゃ何にもならない。まずは人を好きになりなさい」

私は大切なことを忘れていたようだった。私はメイド喫茶を辞めることにした。人を愛するのに濃紺のワンピースと白いエプロンは必要ないようだった。