悪魔の憂鬱

 人の行動を左右する内面での葛藤は、しばしば擬人化して表現される。欲望のおもむくままに利己的な行動に導こうとするのが悪魔であり、理性的で利他的な行動に導こうとするのが天使であるとされている。小さな子供が「僕の中で、いい方の僕と悪い方の僕が喧嘩しているの」と言っている時に、「絶対にバレないから、お菓子を独り占めにしようぜ」と言ったことを囁きかけているのは悪魔と決まっている。潜在意識を漂っている負の感情を呼び起こし、その行動を支配して世界を混乱に導く。それが私たち悪魔の仕業ということになっている。

「もしあなたが神の子であるなら、この石にパンになれと命じてごらんなさい」

飢え死にする者のいない現代社会ではあまり実感がわかないことかもしれないが、人間は空腹を満たすためであれば、大抵の悪行はやってのける。そしてもしも大勢の人間の腹を満たすのに必要な食糧が不足しているというのであれば、奪い合いが起きる。暴力で相手をねじ伏せ、命を奪うこともある。そういう時は必ず私たち悪魔がささやきかけている。

「あなたやあなたの家族が生きるためだから仕方がない」

そう言ってあげれば、手を下すのを躊躇する者はいない。そして私は何人もの人間を飢えを理由とした悪行に導いて来た。

「もしあなたが私の前にひざまずくなら、これらの国々の権威と栄華をみんな、あなたに差し上げましょう」

悪魔にひざまずくということは、支配欲と所有欲を満たすために行動してしまうことを意味しているが、それが悪いことだと考える人は今では随分と少なくなっているかもしれない。資本主義経済の真っ只中でルールに従って競争をしているだけであり、そうしないと世の中が発展しないと考える人たちが増えて来ている。だが結局のところ、支配欲と所有欲の行きつく先は互いの存在を否定することでしかない。それは場合によっては、戦争すら引き起こすこともある。

「あなたの正当な権利を認めない相手を野放しにすることはできない」

そう言ってあげれば、手を下すのを躊躇する者はいない。そして私は何人もの人間を支配欲と所有欲にまみれた悪行に導いて来た。

「もしあなたが神の子であるなら、ここから飛び降りてごらんなさい」

神を試みてはならない。愛する息子イサクを捧げるよう神に命じられたアブラハムは一瞬たりとも神を疑うことなく、それを実行しようとした。神の御心が人に理解できない場合もあると考えて自分を無理やり説得している。ここまでくると私たちには相当手ごわい相手と言える。だが、そういう人間こそ、堕落させ、私たちの仲間に引きずり込まなければならない。

「神はせめてあなたに真意を説明すべきではなかったか。あなたにだけ無条件に従順を示せというのは、あなたの人格をまるで認めていないということではないでしょうか? そんな神を信じる必要はないと思います。あなたやあなたの家族が心安らかに過ごすということが一番大切なことではないでしょうか?」

そう言ってあげれば、信心も揺らぎ、神の下を離れるかもしれない。

 

「そして私は来る日も来る日も、人間を堕落させようと務めて来ました。ある日、ふと思いました。どうしてこんなネガティブなことばかり囁きかけなければならないのか? 私だって前向きに物事を考えたい時があるのです。でも私自身の誘惑の言葉が、私自身の成長を根本的に妨げてしまっているのです」

人間をダークサイドに導くための言葉を囁き続けることに疲れ果ててしまった悪魔は心療内科を訪れていた。医者は悪魔の訴えに真摯に耳を傾け、必死になっている悪魔の視線を誠実に受け止め、時々大きくうなずいていた。ずっと長い間、人間を誘惑して堕落させる。確かにそんな人生だと嫌になってしまうかもしれない。医者は心底、悪魔に同情していた。

「あなたは今の仕事に疲れ果ててしまったようですね。配置転換してもらった方が良いかもしれません。たとえば、人を励ましたり、勇気づけたりすることができる部門が良いでしょう」

「それはまるで天使のやっていることではないですか。確かにそうしたいと思っています。でも私が役割を放棄してしまったら、私の代わりは誰が務めるのでしょうか?」

「あなたはそんなことまで心配する必要はありません。あなたは、あなた自身が良くなることだけを考えてください。あなたが天使の仕事をやれる可能性について、少し心当たりがあります」

医者がそう言ったので悪魔は少し安心した。そして抗うつ剤睡眠導入剤を処方してもらって帰って行った。悪魔がクリニックを訪れる前、医者は別の患者の診察をしていた。

「もう、人を励ますのは疲れました。あの人たちには何を言っても通じないのです。根本的にやる気がないのだと思います。そんな人たちを励ますのは全く無意味です。私には天使の仕事は向いていないかもしれません」

悪魔が来る前に心療内科を訪れた患者はそう訴えかけていた。