八尾比丘尼(やおびくに)

 目覚めると知らない女が隣で寝ていた。女は裸で私も裸だった。喉が渇いた私はベッドを抜け出して、備え付けの小さな冷蔵庫のドアを開けて中をのぞき込んだ。ビールとオレンジジュースとミネラルウォーターがあった。ミネラルウォーターを取り出して、プラスチックの蓋をねじりきり、冷たい液体を乾いた喉に注ぎ込んだ。

「私にもくださいな」

いつの間にか目を覚ましていた女が言った。丁寧な言葉遣いだった。

「ごめん。昨日、何があったか何も覚えていない。君の名前すらわからない」

私は正直に言った。いつもこんなことをしている訳ではない。いつもはもっとちゃんとしている。名前も知らない女と寝たりはしない。

「八尾比丘尼と申します」

「ヤオビクニ?」

聞いたことのない名前だった。いや、どこかで聞いたことがあるかもしれない。もちろん知り合いにはいない。言い伝えか何か。日本が混じりけなしの美しい国であった頃の古い言い伝えに出て来るような何か。

「どこかで聞いたことのある名前だ」

私が言うと女はクスクスと笑っていた。背伸びした子供をからかうような笑い方だった。

「君のことを知りたい」

続けて言うと益々笑うようになった。

「本当に?」

それから八尾比丘尼は彼女のとても長い半生を語り始めた。

「奇妙な魚が捕れたという話を私は知らなかったの。人の顔を持つ奇妙な魚。気持ち悪がって誰も食べようとはしなかった。でも私が見た時には解体されていて人の顔はなかった。その頃、私は小さな子供でいつもお腹を空かせていて、村人たちの残り物を食べてなんとか生き延びていた。その時も構わず魚の肉を食べてしまった。それから十五年経って私は大人の女に成長した。今のあなたと同じように私と寝たい男は何人でもいた。それから十年経っても二十年経っても私は若々しさを保ったままだった。何度か結婚したけれど夫は天寿を全うして先に死んで行った」

人魚の肉を食べると不老不死が得られると聞いたことがある。その女が今、目の前にいるのだろうか?

「びっくりしたようね?」

女は相変わらずクスクスと笑っていた。子供扱いされているようだった。実際、不老不死の人間から見れば、寿命の限られた人間は誰もが子供のように見えるのかもしれない。

「君は何歳なの?」

私は聞いてみた。

「あら、女性に年齢を聞くなんて失礼な人ね」

「ごめんなさい」

「答えてあげたいけれど忘れてしまったのよ。そんなのいちいち覚えていない。生まれたのは確か千二百年頃だった」

そうするともう八百年生きていることになる。

「長生きするのはどんな気分がするものですか?」

昨日、身体を重ねた女になんだか変なことを聞いている気がした。

「知っている人がみんな先に死んで行くのはとても悲しいことなのよ。子供も一度だけ作ったけれど、私よりも先に死んでしまった。孫も先に死んでしまった。孫の子供には会っていない。そんないつまでも生きている女が身内だなんて知られるとかわいそうだから。そんなことがあったからもう夫も子供も持たないことにした」

子供に先立たれるのは不幸に違いない。不老不死の人間にはそういう運命が待ち受けているのだろう。

「私も質問していいかしら?」

女が言った。

「ここに人魚の肉があったとしたら、あなたは食べる?」

もしかしたら私は不老不死を手に入れる寸前まで来ているのかもしれなかった。

「そうすればあなたはずっと生き続けることができる。それにあなたは一人きりじゃない。私がずっとそばにいてあげる。いつでも抱きたいときに抱いていいのよ。いつでもあなたを満足させてあげる」

・・・

結局、彼女とはそれきりだった。彼女の話を聞いているうちに、不老不死の女は決して幸せにはなれないのだと私は確信した。その伴侶として過ごすことは永遠の不幸を背負うのと同じだと思って、私は怖気づいたのだった。

「幸せになってね」

別れ際に彼女は言った。その言葉には八百年分の不幸を生きた人間の重みがあるような気がした。