泡の末裔

 それは初め、泡だった。今よりずっと地球の近くを回っていた月が潮汐力によって激しく海を攪拌していた。そのため陸との接点にあたる波打ち際では、さかんに泡が立っていた。初め、泡の中と外で区別はなかった。それは同じ海の成分だった。泡はすぐに壊れてしまっていたが、気が遠くなる程の長い年月を経て、少し壊れにくくなったものがあった。泡を維持するための膜が少しだけ丈夫になったのかもしれなかった。あるいは膜が丈夫になった泡が、すぐに消えてしまう泡よりも存在する確率を増したということかもしれなかった。そして膜が丈夫になると中と外で違う物質が保持されるようになった。膜の中の物質は初めただの物質だった。いつしかその中に鎖状につながる塩基が含まれるようになった。DNAとRNAを構成する五種類の塩基がすべて一つの隕石から検出されたという報告を聞いたことがある。そうした隕石が波打ち際に落下して塩基が膜の中に含まれるようになったのかもしれなかった。塩基は膜の中で結び付き、どんどん長くなっていった。四種類の塩基三つで四×四×四通りの組み合わせがあり、二十種類あるアミノ酸を塩基三つの組み合わせで指定することができた。アミノ酸を続けて指定することで特定の構造を持つたんぱく質を作ることができた。それはやがて膜の中に存在する物質の構造を指定するようになった。膜の中はもはや身体と呼べるかもしれなかった。身体の構造を指定する塩基は二重らせん構造を持ち、互いに対となる塩基を補完しながら分裂することで自分のコピーを作ることができた。やがて塩基のつながりも、それが作り出す身体の構造も複雑になり、多様化し、様々な形状の動植物に進化した。動物の進化に伴って、呼吸や消化といった基本的な生命活動を調節する部位、運動を制御する部位、視覚や聴覚を使って外界の情報を認識する部位が発達した。その部位は脳と呼ばれる構造であり、やがて脳は未来の行動に役立てるために経験したことを記憶するようになった。さらに脳は周囲の人々と協調して活動するために言語を生み出し、その言語を使って思考するようになった。思考するようになった脳は自問するようになった。

「私が生きる目的は何なのか? 私が生まれて来たのは何のためなのか? この時代のこの国に私が生まれて来たのは何らかの必然があるからではないだろうか? きっと私の為すべきことがあるに違いない」

 

「俺の人生は素晴らしいものだったよな?」

余命宣告され、死の床にある政治家が病室に付き添っている彼の息子にたずねた。失われそうになった国家の大義名分を復活させてくれた偉大な人物だと評価している人々もいたが、主張の異なる陣営や他国を恫喝することも度々あって嫌っている人も多かった。

「そりゃあ素晴らしい人生でしたとも」

息子は言った。それから一時間後、無頓着な自然界の生み出したかつて泡だったものの末裔は土に還った。