ある日、森の中でばったりとクマさんに出会った。クマは私を睨みつけていた。命が危険にさらされていることを身に染みて感じた。さっき『クマさんに出会った』と言ったのは取り消しだ。森の中でクマに遭遇してしまったというべきなのだろう。ヤバい。どうしよう?
「何、メンチ切ってんねん?」
突然、関西訛りでクマは言った。メンチ? 何のことだ? とっさに私はスマホを取り出し検索する。ヤンキー系の死語で「ガン飛ばす」と同じ意味らしい。いや、それは説明になっていないだろう。ガン? 何だそれは? 私はますます混乱してしまった。急いでその先を読む。ウンコ座りでこちらを見上げて相手を威嚇する言葉。ますますわからない。もう調べるのはやめよう。
「この辺りじゃ見いひん顔やな」
クマは幾分か緩和された関西弁を口にした。どうやら完全にビビッてしまっている私を見て圧倒的優位にあることを本能で感じ取り、余裕が出て来たらしい。
「そうです。通りすがりの旅人でございます」
私はうやうやしく慇懃に答えた。いかなる敵対的行動をも取る意思を持ち合わせていないことを迅速かつ明瞭に示す必要があった。
「旅人がこんなところに何しに来たんや?」
クマは言った。しまった。余計なことを言ってしまったかもしれない。絡まれる材料を自分から提供しているようなものではないか。私は自らの不用意な発言を悔いた。
「おい、ここに旅人がおるで~」
クマがそう言うと、茂みからベンガルトラが現れた。ここはいったいどんな密林なのか? ここでトラの登場はないだろう?
「どっちが旅人のマントを脱がせるか勝負や」
「おう」
えっ? なんか違う話になってなくない? これも旅人なんて言ってしまったせいなのだろうか?
「おい、旅人」
「はい」
「とっととマント脱げや!」
脱げと言われても私はマントを着ていない。わかってて言っているのだろうか? なんてやつらだ。絶対的に優位な立場を利用して人をコケにしてやがる。いまどきの人間の世界では、そういう行為はハラスメントとして禁止されている。昔は許されたが、今やってしまうと一発レッドで退場させられる。
「はよ、せいや!」
いや、そもそもおかしいだろう? どっちが先に脱がせるかってそういうことじゃないだろう?
「おい、クマ公!」
プッツンしてしまった私は命の危険も顧みず言い放った。
「いつまでもそんなやり方をしていたら部下がついて来ないぞ!」
そう言うと、クマは怯んだように見えた。心なしか、さっきよりも小さく見えた。
「実はそれについてはずっと悩んでいたのです」
クマは急に標準語になってうやうやしく言った。どうやら痛い所を突かれたようだった。
「今度、心理カウンセラーと各種相談窓口を紹介してあげよう。それで御社のハラスメント問題の根本的な解決方法を探りましょう!」
私は言った。クマは途端に笑顔になった。誰に相談して良いのかわからず、ずっと悩みを抱えていたようだった。
「あの~、私もご一緒させてもらってよろしいでしょうか?」
ベンガルトラがうやうやしく言った。
「よろしい、ついて来なさい!」
こうして森にハラスメントのない平和が訪れたのだった。すっかり気分が良くなった私とクマとベンガルトラは、いつまでも一緒に『森のくまさん』を歌っていた。