鈴の音

 どこからか鈴の音が聞こえて来る。じっと耳をすまして音の所在を探している。ずっと聞いていると眠りに落ちてしまって、起きたら異世界にいたという類の不思議な音。さっきからずっと聞こえて来る。あたりはすっかり静まり返っている。ここ数日、厳しい寒さが続いている。もう外では音も無く雪が降っているのかもしれない。そこは静けさに満ちていて、すべてが深い眠りにつこうとしている。するとさっきから聞こえて来る鈴の音は外から聞こえて来るのではないのかもしれない。時折、車の通り過ぎる音がする。アスファルトを踏みしめるタイヤの音。静かな夜の邪魔をしている。そういう音とは素性の違う、神社で執り行われる行事の時に正装した姿勢の良い巫女が、真っ直ぐに手を差し出した時に鳴るような鈴の音。聞く者が皆、自然と神事の執り行われる世界に引きずりこまれて行く。部屋の中に音の発信源は見当たらない。空気を押し出す音のする暖房器具はさっきから止まっている。私は布団の中でじっとしている。そこで眠りにつこうという時に、あの鈴の音が聞こえて来たのだ。音を追いかけるとすぐに消えてしまう。追いかけるのを止めて眠りにつこうとするとまた聞こえて来る。その繰り返しだった。だがやがてある結論に達した。外から聞こえて来るのではない。部屋の中にも音源はない。つまり音は私の中から聞こえて来ている。

 

 その音をずっと追いかけてみる。暗闇の中を気を付けながら進んで行く。遠くの方に光が射している。あそこが出口に違いない。光がだんだんと広がって来る。暗闇を抜け出すと住宅が並んだ閑静な街に出た。私はお椀を持って豆腐を買いに出ていた。その頃にはまだ、街には早起きをするお豆腐屋さんがあった。豆腐は冷たい水の中に浸かっていて、注文した数だけ持参したお椀に入れてくれるのだった。

「絹ごし一丁ください」

豆腐屋さんに言って、お代を払う。母はいつも絹ごしを買って来てと言う。木綿を買って来てと頼まれたことは一度もない。いや、その当時は、木綿豆腐という種類があることを知らなかった。豆腐と言えば、絹ごしのことだと思っていた。それで大人になっても、つい絹ごしを買ってしまう。これは子供の頃に出来た習慣なのだろう。お豆腐屋さんは水槽から豆腐をすくって、私の持ってきたお椀の中に入れてくれる。お礼を言って、立ち去る。舗装された道路を歩いて帰る。車はそれほど走ってはいない。家に戻って、豆腐の入ったお椀をテーブルの上に載せる。母は夕食の支度をしている。アニメの歌をうたっている。歌詞は出鱈目だ。わからないところは母が勝手に歌詞を作っている。意図せず替え歌になってしまっている。まな板に包丁があたる音がする。私の買って来た豆腐は母の手のひらでさいのめに切られて、そのまま鍋の中に入れられる。豆腐とわかめの味噌汁。味噌の匂いが漂って来る。

 

 母は先週亡くなった。棺桶の中ですっかり冷たくなってしまっていた。死に目に間に合わなかった私は何か怒られているような気がした。それから葬儀を行って、死亡後の手続きをしに、役所に行ったり年金事務所に行ったりした。何かある度に死亡診断書のコピーが必要になった。火葬場で灰になってしまったら、後は骨壺と戒名と死亡診断書だけが残る。役所も銀行も電話会社も、死亡診断書と戸籍と身分証明書があれば、たいていの手続きはすることができた。人の死もまた、社会の仕組みの中に組み込まれていた。その手続きに従って、生きていた痕跡を次々に消して回った。かつて存在していたものが、やがて消失してしまうという途方もない哀しさに気付かずに、人は日々の生活を送っている。だが、その可能性は常にこの世界を行き来している。昨日、すれ違った人の中に、親しい人を失って哀しみに暮れている人がいたかもしれない。他人の前で、会社や電車の中やショッピングモールで、人は哀しさをさらけ出したりはしない。ただじっと耐えている。ぽっかり空いてしまった胸の穴が新しい日常で埋め尽くされるのを待っている。会社の帰りに夕食の材料を買いにスーパーに立ち寄った。スーパーの冷蔵棚にビニールのパックに封入された絹ごしの豆腐が並んでいた。今日は豆腐とわかめの味噌汁にしようと思って、私は絹ごし豆腐を買い物かごに入れた。