自殺の名所

 断崖に一人たたずんでいた。空は鉛のような雲に覆われていた。日本海の荒波がひっきりなしに岸壁に打ち付けていた。波と岩がしのぎを削る音だけがずっと続いていた。とうとうここまで来てしまった。あと一歩踏み出せば楽になれるのだと思った。洋々とした未来の拓けている人は、踏み外せば確実に命を落とすこんな場所に近づいたりはしないだろう。ここには人生に絶望した人がやって来る。そして最後の一歩を踏み出し、静かに人生を終えるのだ。

「新入りさんですか?」

振り向くと顔色の悪い細身の女性がいた。さっきまで人影はなかったはずだ。いつの間に近付いて来たのだろう?

「新入り?」

何のことだかわからず、私はおうむ返しに聞いた。

「あなた、ここから身投げしようとしているのですよね?」

「そうです。止めないでください。もう決めたことです」

「止めたりはしないですけどね。私だって一か月前にここから身投げしたばかりです。死にたいと思う人の気持ちはよくわかります」

「えっ?」

よく見ると女性には足がなかった。そして宙に浮いていた。

「あなたはその・・・幽霊なのですか?」

「そうです。一か月前から幽霊やっています」

彼女は言った。

「生きづらい世の中ですからね。ここにはあなたや私のように人生に絶望した人たちが頻繁にやって来るのです。そのせいか最近ではすっかり過密気味になってしまっているのです。霊とは言っても、ほれこの通り空中に浮かんでいますからね。自殺者が増えるに従って占有できる空間が減ってしまうのです。それでたまに幽霊同士の小競り合いがあったりします。私は新入りですからね。特に大変なのです。先輩方の機嫌を損ねないように気を配って生きていかなければなりません。いや、生きてはいないか。とにかく幽霊には幽霊の都合があるものなのです。特にこのような名所では」

幽霊だと言う女は、二階の騒音がうるさいと大家に訴えかけているアパートの住民のようなことを言っていた。

「静かに過ごしたいと誰もが思っているのですがね。人生の終焉がこの有名スポットに集中してしまっているのです」

死んだら現実世界のあらゆる煩雑な出来事から解放されると思っていたが、死後にも悩みは尽きないようだった。

「まぁ話をするだけならいいですけどね。マウントを取って来る先輩もいるので気をつけてください」

「マウント?」

「本人に悪気はないのだと思います。私がそう感じているだけかもしれません。いえね、不幸を自慢する霊が後を絶たないのですよ。俺の方がお前よりずっと不幸だったって毎日聞かされるのですよ。お前よくそんな程度のことで死ねたなとか。たまったもんじゃありませんよ。私だってそれなりに不幸だったのです。私が生まれた時、父親は覚醒剤所持で服役中でした。物心ついた頃には母親は若い男を連れ込んでやりまくっていました。相手の男は私のことを邪魔そうに見ていました。でもその男だけじゃなくて母も私のことを邪魔そうに見ているのですよ。それからしばらくして母はその男と駆け落ちしてしまいました。それ以来、会っていません。お前なんか要らない人間だとその時に刷り込まれてしまったのでしょうね。それから私は親戚に引き取られました。でも親切なおじさんだと思っていたのに、まだ幼い私の身体をジロジロ見ていたりしてね。それがだんだんエスカレートしてきて、おばさんのいない間に身体を触られまくりました。それがおばさんに見つかってしまって、これでやめてくれると思ったら、おばさんにこのエロガキが誘惑しやがってと言われました。お前なんかどっかにいっちまえという感じですね。中学を出て働き始めました。でもアルバイトで暮らして行くのは到底無理で、すぐ水商売に行き着きました。そこでやさしい言葉を掛けてくれた人と同棲しながらなんとか暮らしていましたけど、賭け事の好きな人で知らないうちに借金の保証人にされていて、おまけに別の女を作ってすぐに私の前から消えてしまいました。それで借金返すために必死に働いていましたけど病気になってしまって、それも生活に支障が出る程の症状でおまけに百万人に一人の難病と言うことらしくて、治療費も高くて直る見込みもほとんどゼロに近くて、もうしんどいな、もう楽になりたいなと思って、そしてここにやって来たのです。でもこの程度の不幸だとここじゃ自慢にもならなくて・・・」

私は固唾をのんで彼女の話を聞いていた。

「ここには私なんて足元にも及ばないどん底の不幸を味わった人がたくさんいます。ロシアの小説に出て来るような奇怪な人物のオンパレードですよ。そういう人たちに囲まれていると、なんだか居心地が悪くて、でもここで死んでしまった霊が他の場所に行けるという訳ではないですからね。だからここでずっと新しい人が来るのを待っていたのです。私より不幸な人だったら嫌ですけどね。私と同じくらいの不幸だったら良い友だちになれるかもしれないと思って・・・あれ? どこに行くのですか? ちょっと待って・・・」

私は断崖から離れ、一心不乱に国道の方へと向かっていた。ここは私の来るべきところではなかった。どんなに苦しくても生きて行こうと思った。