片想いの考古学者

 ゴーギャンは『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』というタイトルの絵を描いた。私たちはいろいろなことを知っているつもりでいるが意外と何も知らないということを、この絵のタイトルは示しているように思える。真ん中の問いと最後の問いは初めの問いに比べると難易度が高いように思える。『我々は何者か』と聞かれても答えに詰まる。『考える葦』と言った人もいるが、そもそも『考える』ということがどういうことなのかよくわからない。これでは収拾がつかない。『我々はどこへ行くのか』というのも答えに詰まる。人間全体を指して『どこへ行くのか』を問われても、個体としての私の寿命は高々数十年に限られている。人類の行く末など知る由もない。そうすると私たちが追えそうな問いは一つ目の『我々はどこから来たのか』に限られる。これも相当難しい問いではある。そして私は、その問いに答えるために考古学者になったと言っても過言ではない。答えるというより、その問いに専念しているという方が正確かもしれない。たとえ答えが見つからないのだとしても、根源的な問いに専念できることほど幸せなことはない。そして私は、文明発祥の謎をずっと追い続けている。楔形文字を解読し、当時を生きた人々が作り出した物語に思いを馳せている。楔形文字以前には文字もなく、物語もない。そこが始まりに違いない。そこには方舟の物語や季節の移り変わりを暗示したギリシャ神話の原型がある。その時代に生きていた人々はどのような暮らしをしていたのか? 今、生きている私たちと同じように喜怒哀楽に満ちた暮らしをしていたのだろうか? 私たちはすぐに死んでしまうのにいつも束の間の幸福を願っている。産まれてきた子供を慈しみ、抱き寄せる。豊作を願い、神々に祈りを捧げる。その時代の人々も私たちと同じ気持ちを抱いて生きていたのだろうか? 証言する者は誰もいない。粘土板に刻まれた文字だけが静かに語っている。

 

 いつの間にか私は日干し煉瓦の建物の中にいる。巻衣を着た髪の長い少女が食事の支度をしている。髪飾りをつけている。上半身裸の私は腰にふわふわしたスカートのようなものを着ている。起き上がって建物の外に出る。日干し煉瓦の家屋があちこちにあって、各々の家屋から煙が立ち上っている。どの家も夕食の用意をしているようだ。外では子供たちが集まって遊んでいる。日輪は一日の工程を終えて、西の地平線に沈もうとしている。シュメール人とその文明は彼らが滅ぼされてから、ずっと忘れ去られていた。彼らの作った物語だけが、征服した民族を媒介として伝えられて来た。楔形文字が解読されるまで、私たちは物語の本当の作者を知らずにいた。いや、今でもシュメール人の誰かが書いたということ以外には何も知らない。巻衣を着た髪の長い少女が私を呼びに来る。食事の支度が出来たようだった。少女はシチューを作ってくれた。小麦とラム肉とにんじんのシチュー。ざく切りにしたクレソンときゅうりにフェンネル粉とクミン粉でとっただしで煮込んでいる。小麦をかまどで焼いたパンもある。皿に盛った食事をテーブルに運んで来る。頬杖をついて、私が食べるところを楽しそうに見ている。口に入れたラム肉をよく噛んでから飲み込む。狩猟生活から農耕生活に移り変わって、肥沃なこの土地に私たちは定住するようになった。契約で使うようになった文字があらゆる側面に広がりを見せて、洪水の物語や女神が冥界を訪れる物語が描かれた。『我々はどこから来たのか』という問いはシュメールまで遡ることができる。それ以前にどうだったのかはよくわからない。それ以前には文字も物語もなかった。

 

 気が付くと私は現代に戻っている。何十年も風雪に耐える屋根と壁。日光を効率よく取り入れるガラスの窓。ガスで調理するコンロ。電子レンジ。冷凍庫付きの冷蔵庫。テーブルに座っているのは私一人だけ。巻衣を着た髪の長い少女はいない。文明発祥の謎を追って、メソポタミアに思いを馳せていれば、きっとまたあの少女に会えるだろう。