ノウハウの伝承

 ノウハウを持ったベテランの高齢化が進行している。ベテランの退職と共に貴重な業務ノウハウが失われてしまうという悩みをあらゆる企業が抱えていた。状況を重く見た企業では、ベテランが暗黙知として保有している経験や知識を若い世代に引き継ごうとする試みがなされていた。だが、本当にそれで大丈夫なのかはわからなかった。そもそも、ベテランの暗黙知を次の世代が引き継げているかを確認する方法がなかった。そうしたニーズを背景にベテランの持つ暗黙知形式知として抽出するためのサービスが急速に発展を遂げることになった。ベテランは無意識のうちに自分が保有しているノウハウを駆使してあるインプットに対して適切なアウトプットを出す。ここでインプットとアウトプットの組み合わせが十分にデジタル化されていれば、マシンラーニングによりベテランの作業を実行するAIを構築することができる。そして次にAIの作業によるアウトプットをベテランのアウトプットと比較する。十分な試行回数に対してAIのアウトプットとベテランのアウトプットに差異のないことが確認できれば、そのAIはベテランの代わりとして十分に機能することになる。このサービスは熱烈に歓迎され、あらゆる分野においてベテランの代わりとして機能するAIが構築されるようになった。これでベテランの退職と共に貴重な業務ノウハウが失われることはなくなった。だが、そこが終わりではなかった。

「もうベテランは要らないのではないだろうか? 業務ノウハウはこちらの手にある。もうベテランに高い給料を支払う必要はないのではないだろうか?」

AIの構築に成功した企業は、次にノウハウを抜き取ったベテランのリストラに乗り出した。ノウハウをAIに抜かれたベテランは仕事を与えられずにパソコンも何もない部屋で待機するように命じられた。たとえ出世はできなくても、現場で必要とされていることにやりがいを見出していたベテランは誰からも必要とされない状況に必死に耐えていたが、職人気質の人間が何もしないで良いという状況に長く耐えることはできなかった。そして自己都合による退職を選択せざるを得なくなった。ベテランのノウハウをAIに抜き取ることや大量のベテランをリストラに追い込むことに成功した社員は、会社に対する貢献度が非常に高いとして優遇されるようになった。それ以外の大多数の社員は今回の会社のやり方について納得していなかったが、表立って反対することなどできず、心の内に募らせた反感を気付かれないように黙って仕事をするしかなかった。

 

サイバー攻撃が増えています。各拠点のセキュリティ担当者が防御に当たっていますが、数が足りません。セキュリティの専門家をもっと増やして行かなければ、やがて耐えられなくなるでしょう」

「セキュリティの専門家と言ったって、注文を取って来る訳ではないし、新製品を開発する訳でもない。間接部門の人員を増やしても、会社が発展するとは思えない」

「ですが、このままですと個人情報の流出といった問題が発生するのは避けられません」

「開発者も営業も少ない人員で懸命にがんばっている。セキュリティ部門だけ特別扱いする訳にはいかない」

 事業部長に必死に掛け合ってみたが、なんともならなかった。セキュリティについての理解がまるでない。もともと情報システムに関する理解もない。社内の情報システム部門も人員が足りず一人の担当者が信じられない量の仕事を抱えている。開発部門のセキュリティ担当者も足りない。製品の開発者自身が自分の専門領域に加えて、セキュリティに関する実装や製品としてのあり方を考えて行かなければならない。そこでのリスク分析が十分に行われているとは思えない。いずれPL法に引っ掛かるような事件が起きてしまうかもしれない。その前に、サーバにある情報が漏洩してしまうかもしれない。それにしてもサイバー攻撃の増え方が半端ない。今では闇の市場でハッキングツールが手に入るらしい。それを使えば誰でも攻撃ができると聞いている。一握りの優秀なハッカーが攻撃手段を考え、次に優秀なハッカーがそれをツール化する。そしてセキュリティの知識も何も持たない普通の人間がハッキングツールを使って攻撃を行う。どこにでもいる普通の人間が大挙して攻撃を仕掛けて来るとさすがに困る。当社に恨みでも持っているのだろうか? それからしばらくしてサイバー攻撃により、当社の重要な業務ノウハウが失われてしまった。ベテランが何年もかかって築き上げて来たノウハウである。そのノウハウを持つAIを構築したばかりだったが、そのノウハウを持つAIがごっそりと盗まれてしまったということだった。盗まれたノウハウは同業他社に売りつけるのかもしれなかった。

 

「本当にひどい会社でしたね」

「リストラに遭った人たちと連絡を取り合い、闇市場で手に入れたハッキングツールでいっせいに攻撃を仕掛けることができた」

「今頃、ノウハウを盗まれたなんて言っているのでしょうね。あいつらが私たちから盗んだノウハウなのに」

「あいつらにノウハウを盗まれて、さらにリストラに追い込まれてしまった。もともと私たちの持っていたノウハウを取り戻しただけだ。何も悪いことはしていない」

ノウハウを抜き取られ、リストラに追い込まれたベテランは、所属していた企業への憎悪を募らせていた。長きに渡る貢献に対して為された非道な行いに、彼らのはらわたは煮えくり返っていた。