AI百景(4)コンクール

「ホテルのロビーを歩いていて、心地良いピアノの音が響いて来て、いいなと思うことがあるじゃないですか? それでどんな人が弾いているのだろうと思って音のする方へ近づいてみると誰もいない。でも鍵盤が浮き沈みしている。ああ、自動演奏だったのかと気付いて少し恥ずかしい思いになります。人間に心を揺り動かされるのであれば良いですけどね。機械の演奏に感動するなんて、特に私の場合はね」

彼はそう言った。かつて著名なピアニストであり、長らくコンクールの審査員も務めていた人物だった。

「あまりに正確な演奏であれば逆に違和感を覚えるでしょうが、最近の自動演奏はテンポも強弱も自在に変更できるようになっていますから人間の演奏と区別するのはむずかしくなっています。それに人間そっくりの精巧なアンドロイドが演奏していることもあります。肌も髪も表情もとても作り物と思えないくらい精巧に作られているのですよ。会話型AIを実装しているので通常の会話も難なくこなせる。人間の身体と同じ可動部位を細部に至るまで正確にモーション制御で動かせて、ピアノやヴァイオリンの演奏を完璧にこなす。いや、技術の進歩にはめざましいものがあります」

何かを思い出したように彼は次第に饒舌になっていた。そしてじっと私の目を見据えたまま、彼の人生を左右したとても重要な出来事について語り始めた。

「それはほんのいたずらのつもりだったのかもしれません。スポンサーが私たちに内緒でAIをコンクールに紛れ込ませたのです。AIがどこまでやれるかみたいなことを知りたかったのかもしれません。あらゆる分野で人間を凌駕しようとしていますからね。コンクールにはかつての天才少女や著名なピアニストに師事している者もいました。破天荒だが心を打つ演奏を聴かせてくれる人、正確無比な演奏を聴かせてくれる人、個性あふれる出場者が揃っていて、何を基準に順位を決めれば良いかとても悩みました」

何を基準に演奏の順位が決まるのか? 素人の私には見当もつかなかった。私たちは音楽を聴いて何に感動しているのだろう? メロディ? 音色? 拍子? 心を動かす要素はいろいろありそうだ。だがそれを物理現象として捉えるなら、弦や管の振動によって引き起こされた空気の粗密波が鼓膜を震わせているだけだ。そこに心がこもっているのだろうか? 奏者が心のこもった演奏をするならば、空気の振動を介して心が伝わって来るものなのだろうか?

「選考を進めて行く中で、あることに気付きました。あの参加者の演奏はどうにも正確すぎる。そこには情熱が欠けていると感じられました。それをみんなで話し合ったのです。そうするとメンバーの一人が言いました。あの奏者はアンドロイドなのではないか? ありそうな話でした。それから私たちはその奏者の一挙手一投足をつぶさに眺めていました。そして同じような動作しかしないことに気が付きました。これはもう疑いようのないことです。初めその奏者は表彰の候補にも挙がっていましたが、外すことにしました。それからも議論を重ねて、破天荒だが何かしら心に訴えかける演奏をする奏者を一位に選びました」

素人にはまるで違いがわからないことだが、研ぎ澄まされた耳を持つ人たちであれば真贋を見極めることができるのかもしれなかった。

「そして表彰式を迎えました。私は奏者の前に立ち、その栄誉を称えました。そして微笑みながら、表彰状を渡そうとしました。その時、表彰状を受け取ろうとする彼の腕が床に落ちました。義手? そんなはずは? 目の前にいる彼は申し訳なさそうに落ちた腕を取り上げ、装着し直しました。そしていたずらっ子のような目で私を見ていました。その時になって、ようやく私は気付いたのです。彼はアンドロイドなのだ。アンドロイドは二体紛れ込んでいたのだと」

そこで彼は私に同意を求めるような眼差しを向けた。

「それ以来、私は審査員をやめてしまったのです。もう難しいことを言うのはやめようと思いました。機械と人間の区別もつかないのですから。それからは漂って来る音に、ただ耳をすませていればいいのだと思うことにしました」

会話の相手が人間かAIかを確実に判別する手段はないらしい。相手に心があると思うのは私たち自身なのだ。きっと演奏も同じことなのだろう。