火星で生活するための訓練

 地球以外にも生命は存在するのだろうかと人類はずっと問い続けてきた。もっとも近くにある月は長らくその対象だったが、科学技術の進展により生命を育むための環境に必要な要件が次第に明確になるにつれ、生命が存在する可能性は否定された。それからは無人の探査船が太陽系内の惑星や比較的大きな衛星に向けて発射され、調査が続けられている。水星や金星は太陽に近すぎて、生命の存在には適していない。金星では硫酸の雨が降り注ぐと推定されていて、なおさら生命がいる可能性は低い。そして現在では、太陽系内で生命が存在する可能性は、木星土星のいくつかの衛星と火星に絞られている。そこには大気や水があり、生命が育まれる可能性が残っている。火星には二酸化炭素が主成分だが大気がある。かつて水が通った跡もある。そこには微生物が存在しているかもしれない。月に比べるとずっと遠くにあるが、それでも太陽系の中では比較的近くにある天体だ。生命存在の可能性を求めて、あるいは人類が移住する可能性のある惑星として、長期に渡って火星で暮らすことは可能か検討が進められている。その一環として、火星での生活に向けて開発された住居でのテストを実施すると宇宙開発局から発表があった。生命を維持する仕組みについては地上では確認できないので、隔離された環境の中で心身の健康を損なわずに生きていけるのかという点を重視したテストになると予測されている。すでに宇宙開発局から選抜チームが参加することが明らかにされているが、一般からの応募も受け付けるということである。テスト期間は一年であり、一年間無事に過ごせたチームには奨励金も支給されることになっているという。

 

 火星での生活を想定したシミュレーション。食糧は小麦、米などの貯蔵可能な穀物と保存の効く缶詰やレトルト食品に限られる。電力は施設内にある太陽光発電で賄える電力量に制限される。通信環境はあるが、火星から地球にあるサーバーと通信する場合を想定して二十分のタイムラグが設定される。地球から火星まで光でも二十分かかる距離なのだ。それから各チームには、生命探査のミッションと作物を育てる実験が課される。それほど難しいことではない。生命探査といっても、ずっと昔に探査船がやったことと変わりがない。火星の土壌に有機物を差し出して、それが分解されたなら生命が存在していると推定するというものだ。住居には各々の個室が用意されている。クルーたちは外部と閉ざされた世界で円滑なコミュニケーションを取りながら生活して行かなければならない。宇宙開発局の送り込んだ科学者チームは火星での探査を強く希望する科学者から四人が選抜されたチームだった。彼らは閉ざされた世界の中にあっても、日々活発な議論を交わしていた。実際に火星に探査に行くのは彼らになるだろうと多くの人々が考えていた。これはそのためのシミュレーションだ。一か月が経過した。科学者たちは暇を持て余していた。単調な作業をずっと続けるのは時間の無駄だと考えるようになる者も出て来た。火星についての議論も、やがて話すことがなくなった。毎日同じメンバーと顔を合わせるだけだから、新しい意見が出て来ることは次第に少なくなっていた。新しい知識を求めてインターネットにアクセスしてみたが、二十分のタイムラグは彼らをいらいらさせた。こんなところで無駄に時間を過ごしている間にライバルたちは各々の研究を着実に進めているに違いないとシミュレーションに参加したことを後悔し始める者も出て来た。

「生命存在の可能性を追求するとか言っているが、本当にそう思っているのか? 火星に生命がいるかなんて実はどうでも良いことではないのか?」

「私たちが本当に知りたいことは火星に生命がいるかどうかというよりは、火星に生命がいるなら、それがどのようにして生まれたかということではないだろうか? ライバルたちはずっとそのことを考えている。私たちがここでこうしている間にも」

「だから通信環境もままならないところで過ごすのは退屈で仕方がない。悪いけど私はもうリタイアしたい」

閉ざされた環境で空回りを余儀なくされる彼らの情熱は、焦りや苛立ちを生み出す原因となり、関係は益々悪化して行った。そして二か月が過ぎて、科学者チームはリタイアした。

 

 地球に比べて重力の小さい火星では長期間の滞在による筋力の低下が懸念されていた。無重力の宇宙ステーションにいる間もトレーニングが欠かせないという。そういうこともあるが、適度な運動は閉ざされた環境での心の健康を保つために欠かせないものであると考えられた。そういう観点で宇宙開発局はアスリートチームを招集した。彼らは通信環境が悪くても気にならないようだった。だが食事には大いに不満を持っていた。普段から最良のパフォーマンスを発揮するために万全の体調管理を心掛けており、そこで食事の占める割合は大きかった。缶詰やレトルト食品がその目的に合っているとは到底言えなかった。火星にいるかもしれない微生物に有機物を与えるというミッションについてはどうということはなかった。そんなに難しいことではない。ジョギングに出掛けるよりもずっと簡単なことだった。することがないので彼らはずっとトレーニングを重ねていた。時々、集まってパーティを開いていたが、やがて彼らにも不和が訪れた。

「私と彼女は付き合っている。邪魔をしないでほしい」

「邪魔をしたつもりはない。付き合っているとは知らなかった。私の方が彼女と親密な関係にあると思っていたから」

「それはどういう意味?」

「彼女のおへその下にほくろがあるって知っているということだよ」

クルーの一人の女性をめぐって、二人の男性が争っていた。二人とも自分が彼女と付き合っていると思っていた。女性は奔放なタイプで一度や二度何かがあったからと言って自分が縛られるなんてと考えていなかった。そして自分を所有物とみなして喧嘩をしている男たちにあきれていた。心身共に健康な男女が生活していれば、不思議なことではなかった。このことは閉ざされた空間の中で、人間の根源的な欲望にどう向かい合えば良いのかという課題を宇宙開発局に突き付けることになった。そしてアスリートチームは三か月でリタイアした。

 

 ミッションに参加したチームは次々にリタイアしていた。宇宙開発局が選抜した二チームはすでにリタイアしており、一般から応募のあった十チームのうち九チームもすでにリタイアしていた。今もミッションを継続しているのは一チームだけだった。彼らは缶詰やレトルト食品が続いても特に不満がないようだった。どうやら普段からそういう生活に馴染んでいるようだった。微生物に有機物のスープを与える作業も休まずに続けた。単調な繰り返し作業は彼らの得意とするところのようだった。コンビニに買い物に行くより簡単だと彼らは言っていた。そして互いのプライベートに干渉することも一切なかった。それもまた彼らが日頃の生活習慣で身に付けたもののようだった。彼らは、社会との接点をずっと前に失くしてしまった引きこもりだった。閉ざされた空間にずっと前から馴染んでいた。そして引きこもりチームは見事にプロジェクトの任務を完遂した。

「今回の経験で少しだけ自信がつきました」

メンバーの一人はそう語っていた。