CO2排出量

「申し訳ありませんが、あなたの今年度のCO2排出量がまもなく上限に達します。次年度までに必要な排出量をすみやかに購入してください」

電話の主はそう告げた。

「CO2排出量?」

「知らなかったのですか? 今年度から適用されています。呉田政権が公約に掲げて、総選挙で圧勝し、あっという間に関連法案が成立しました。ご存じなかったでしょうか?」

地球温暖化がいよいよ待ったなしの状況だった。世界各地で発生している異常気象や自然災害はその影響であると考えられていた。大型化した台風。いつまでも降り続く雨による洪水。砂漠化。熱帯雨林の喪失。経済活動を優先させていた各国首脳は、カーボンニュートラルを無視することはできない状況に追い込まれていた。学生の趣味と思われていた環境運動は大いに勢いを増し、多数の議員を擁立し、政治的な地位を向上させていた。そして環境問題の解決を政策の中心に据える呉田政権が発足して半年が過ぎた頃だった。今まで問題があることをうすうす感じながらも当事者であろうとしなかった国民の一人一人に対してCO2排出量が設定されたということだった。私たちは呼吸をして生きている。酸素を吸って二酸化炭素を吐き出している。生きている限り、毎日CO2を排出している。これは生きて行くために必要となる生命活動を課題と直結させることにより、一気に問題を解決しようとする政権の強い意思表示であるということだった。

「どうすれば良いのでしょうか?」

事情もよく理解しておらず、何をして良いかわからなかったので素直に聞いてみた。

「国民健康省のホームページにアクセスして、ご自身のパーソナルナンバーでログインしてください。そこで手続きが可能です」

言われるままにログインしてみた。そこには私に許されているCO2排出量が円グラフで表示されていた。使用可能な排出量は二パーセントを切っていた。残量がなくなるとどうなるのだろうか? まさか呼吸ができなくなるとかないよなと思って、私は少し不安になった。いかに政府が国民のことを虫けらだと思っていても、そこまではやらないだろう。そう思いながら、とりあえずあと五パーセントだけ購入しようと思い、キャッシュカードで決済しようとしたが処理に失敗した。残金がないらしい。現金もCO2排出量もカツカツという訳だった。私は一年前から失業していた。失業手当も切れて、収入は途絶えていた。就職活動は続けているが、うまく行っていない。このまま行くとあと二週間くらいでCO2排出量は上限に達してしまいそうだった。どうすれば良いのだろう。いよいよ生活保護を受けることになるのだろうか? でも、お金がないのは仕方がないとして、CO2排出量はどうなるのだろうか? 私は呼吸することが許されるのだろうか? ふと、昔見たことのある映画のシーンを思い出した。火星にあるその街には巨大な送風口から空気が供給されていた。そしてある日、支配者が空気の供給を止めてしまう。送風機の羽根が力を失って行く。人々は呆然としながら、羽根が停止するのを眺めている。そして一人、また一人と倒れて行く。CO2排出量が上限に達した私は呼吸することが許されなくなる。私は部屋に閉じ込められる。そして火星の開拓地で絶望しながら送風機を見つめている人々と同じように、空気の供給を止められる。そして意識を失い倒れる。二度と起き上がることはない。その時、また電話が鳴った。

「申し訳ありませんが、あなたの今年度のCO2排出量が上限に達してしまいました。まもなく然るべき処置が実施されます」

電話はすぐに切れた。しばらくすると護送車がやって来た。私は強制的に連れて行かれた。私はCO2排出基準法第三条の第二項に違反しているということだった。違反した状態を速やかに回避するため、所定の施設に収監されるということだった。

 

「どうして切らしてしまったのかなぁ」

施設を管理する担当者は言った。

「失業中で追加の申請ができなかったのです」

私は正直に理由を答えた。

「ここにいる間は、ここの決まりに従ってもらうよ。CO2排出量は守らなければならないからね」

「それはどういうことでしょうか。私はCO2を排出してはならないということでしょうか?」

「排出するのは仕方がない。呼吸しないと生きて行けないのだし、呼吸をすればCO2は排出される」

「じゃあ、どうすれば良いのでしょうか?」

戸惑っている私のところへ白衣を来た看護士がやって来た。

「これからあなたに葉緑体を注入します」

担当者がそう言うと看護士の一人が私の身体を押さえつけ、緑色の液体に満たされた注射器を持ったもう一人の看護士が私の腕を消毒したかと思うと強烈な痛みの発する針を突き付けた。しばらくじっとしていてくださいという声が聞こえた。だんだんと意識が遠のいて行った。気が付くと個室に寝かされていた。起きてすぐに肌の色が緑になっていることに気付いた。急いで部屋を出てトイレを探した。トイレは廊下の行き当たりにあった。洗面所にある鏡を恐る恐るのぞき込んで見た。そこには緑色の気持ち悪い表情の男が映っていた。