ライトフライ

 空高くボールが舞い上がる。こちらに向かって来る。延びるのか、手前に落ちるのかわからない。そう思っているうちにボールは最高到達点まで達し、それから重力に従って地上への落下を始める。私はもう少し後ろにいるべきだったのだ。そう思った瞬間、頭上に差し出したグラブの後方にボールが落下する。申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになる。右利きのバッターが多いので、鋭い打球が飛んで来るサードやショートは運動神経の発達した子供たちが守っている。彼らはなんなくゴロやライナーを捌き、チームの勝利に貢献する。そして私のような下手な子供は、あまりボールの飛んでこないセカンドやライトを守ることになる。それでいつものようにライトを守っていたのだが、振り遅れた打球がこっちに飛んで来て、後逸してしまった。ボールは高く弾んで、どんどん遠くに行ってしまう。もう手遅れだが追いかける。走者がダイヤモンドを駆けている。走れ、走れと応援する人の声が聞こえる。そんなに急がなくても僕はまだボールに追いついていない。やっとボールに追いついて二塁に向かって投げる。山なりの力のないボールが二塁まで届かずに手前で落ちる。二塁手は急ごうともしない。すでに打者走者はホームベースを通過してしまった。じっとりした汗が首筋を伝って行く。白い雲が遠くを流れて行く。カラスが二、三度鳴く声が聞こえる。

 

 試合が終わって家に戻って来る。風呂に入って、普段着に着替える。結局、僕のせいで負けてしまった。気にするな誰にでもミスはあると言ってくれる人。黙り込んでいる人。あいつのせいで負けたのだと訴えかけて来る視線。確かにエラーをしたのは僕だ。でも過失じゃない。普通にやって捕球できるのなら過失だが、僕は普通にやって捕球できない。上手な人たちにそんな人間の気持ちがわかる訳がない。神様は不公平だ。人並みの運動神経さえあれば、こんな気持ちにならなくて済むのにと思いながら、パソコンの電源を入れる。パスワードを入力して、しばらくするとデスクトップ画面に海岸を走っている人が表示される。マウスを操作してブラウザを起動する。動画のサイトに移動する。日本人メジャーリーガーの活躍を見るのが楽しみになっている。小谷選手は昨日もホームランを打っていた。それに比べて僕なんかヒットも打てない。バットにボールが当たっても弱いゴロしか転がらない。それでも一生懸命走れば、エラーか内野安打で出塁できることもある。でも、そんなことよりライトフライが普通に捕れるようになりたい。人間はとても不平等にできている。メジャーリーグでホームランを打つ人もいれば、地域対抗のソフトボールの試合でライトフライを満足に捕れない人間もいる。見たい動画を選択してダブルクリックする。動画が再生される前に広告が入る。

「そこのあなた、ライトフライが捕れなくて困っていませんか?」

「えっ?」

画面にはスーツを着た真面目そうな男が映っていた。

「どんなにスポーツが苦手な人でも野球やソフトボールが上達するコツをつかめるようになります。詳しいことは画面に表示しているURLをクリックして指定のホームページにジャンプしてください。この動画を見ている方だけの特典です。画面を消してしまうと二度と行けなくなるかもしれません」

 

 夏の強い陽射しが乾いた地面に照りつけている。うだるような暑さの中、止むことのない蝉の声が響き渡っている。グラウンドにはライトフライを捕れなくて困っている人たちが集まっていた。僕は少し安心していた。世界にはこんなにもライトフライが捕れなくて困っていた人がいたのだ。僕だけじゃなかったのだ。まさに世界はライトフライを捕りたくて仕方のない人々で溢れていたのだ。

「あなたはどうしてライトフライを捕りたいのですか?」

僕よりもずっと背の高い大人が隣にいたので尋ねてみた。

「私ですか? そうですね。ライトフライくらい捕れなくてもいいじゃないかという人が世間にはたくさんいるのは承知しています。私だって一時はそう考えてきました。でも、そのことが原因でビジネスにおけるちょっとした障害に躓いてしまうことも十分あり得ます。こんな世の中ですから。それにせっかくセカンドフライの捕球講座をマスターしましたからね。ライトフライもマスターしておきたいです」

「セカンドフライの講座もあるのですか?」

「ありますよ。セカンドゴロとセカンドフライとライトフライの三つがあります。他はありません。サードとかショートは強烈なゴロやライナーを捌ける上手な人が守っていますからね。サードフライの講座なんてものはありません。彼らがイージーフライを落球するなんてあり得ないですから。素人の野球では、下手くその守備位置はライトかセカンドに限られます。それは単に右利きが多いから、右方向に打球が飛びにくいという理由です。みんなわかっていると思いますが」

「そうですね」

「子供の頃の成功体験はその人の後々の人生の是非を左右します。勉強ができるというのも一つの成功体験ではあります。テストで良い点を取れば自信がつきます。ですが、それだけではありません。子供たちは集団の中で遊んでいます。そこは平等な世界ではありません。自然と序列ができてしまうのです。そして運動能力の良し悪しが序列に大きく影響していることは言うまでもありません。右打者が力いっぱい引っ張った強烈な打球を難なく捌くサードと振り遅れて力なく上がったライトフライを捕球し損ねるライト。そこには王子と乞食ほどの圧倒的な差が生じてしまうのです。そんな状況に長くいると、他のことができても自信をなくしてしまうのです。重要な会議の席上で失言してしまって、社内での信頼関係を損ねてしまうこともあります。それもこれもライトフライを落球してしまったという苦い経験のせいなのです」

やはり、そうだったのだ。ライトフライを捕れるか捕れないかで、その後の人生は大きく左右されてしまうのだ。それが事実なら、ここに来たのは大正解ということになる。

「セカンドフライの講座は終えられたということですが、それでは不十分なのでしょうか?」

「内野と外野の違いがありますが、それが本質ではありません。私は不幸にして両方とも守備についたことがあります。そして両方で失敗しました。セカンドフライを落球したことはセカンドフライを捕ることでしか償えません。ライトフライも然りです」

そういうものだったのか。ライトだけで良かった。セカンドとかセンターとか守れと言われなくて良かった。思い出しただけでぞっとする。とにかく私はライトフライに専念すれば良いのだ。ライトフライさえ克服できれば、後はなんとかなるに違いない。

 

 セカンドフライの講座を受講済のおじさんを除けば、他の受講生は皆、私と同じくらいの年齢の少年がほとんどだったが、ひとりだけ女の子がいた。女の子が野球やソフトボールをしているところをあまり見たことがなかったので、ここに女の子がいるというのは、僕にとってはとても意外なことだった。その女の子は、白い体操服に白い短パンを履いていた。髪は短くまとめていたが、活発という印象は受けない。いったいどういう事情で彼女はここに来ているのだろうと彼女の方をぼんやり見ていると視線がふいにぶつかった。彼女は微笑んだ。僕も合わせて微笑んだ。

「君はどうしてライトフライを捕りたいと考えているの? ここにいるということはライトフライを捕りたいということだよね?」

「私には病気の兄がいるのです」

「お兄さんの代わりに来ているの?」

「その通りです。兄は生まれつき病弱で体育の授業もいつも休んでいます。スポーツなんてやったこともないのです。地域対抗のソフトボールの試合も車椅子に乗って応援席から眺めているだけなのです。その時、飛球がライトに向かって延びて行きました。ライトを守っている子供は必死になってボールを追います。でも、慣れていないせいかボールを後逸してしまいました。それでも必死に追いかけていました」

それは丸っきり僕のことではないのだろうかと思った。この子もお兄さんも僕のみっともない姿を見ていたのかもしれない。

「その時、兄が言いました。『僕も一回でもいいから守備につきたいなぁ。上手く捕れるかわからないけれどやってみたい。舞い上がったボールを追いかけるというのは、どういう気持ちがするものだろうか。失敗するかもしれない。でも、上手く捕れなくても、あの子みたいに必死になって追いかけてみたい。僕にはそうすることもできない』 それで私は兄の代わりにライトフライを追いかけてみようと考えたのです。捕れなくてもいいんです。舞い上がった打球を追いかける時に、どういう気持ちがするものなのか。それを体験して、兄に伝えたいと思っています」

そうなのか。失敗することもできない人もいるのだ。確かに私は下手だが、それでも走ることができる。舞い上がった打球を追いかけることはできる。それだけでも恵まれていることなのかもしれない。

 

 私たちはグラウンドのライトの守備位置に集まっていた。ホームベース付近でノッカーがバットを振り回し、ボールをセンターに打ち上げた。センターには誰もいないと思ったが、ふいに犬が駆けているのが見えた。いや、犬ではない。犬の形をしたロボットだ。そして犬のロボットは移動したかと思うと動かなくなった。打球はロボットのいるところに落ちて来た。ロボットは落下地点を正確に予測して、その位置で待っていたのだった。犬の背中にはかごのようなものがあった。ボールは犬の背中のかごに入った。周囲のひとたちは、皆、歓声を上げた。しばらく拍手が続いていた。ロボットが正確に落下地点を予測できたということは、ボールを打った瞬間にどこに落ちるかはすっかり決まっているということなのだろう。そしてロボットの目に映るボールには予測するのに十分な情報が含まれているということなのだろう。それは実際のところ、そんなに難しいことではないのだ。

「こんにちは。皆さん、よく来てくれました」

さっきセンターに飛球を上げた人がライトまで来て挨拶をしていた。

「皆さんがどのような事情でライトフライを捕りたいと考えているのか私は知りません。世界には何万通りものライトフライを捕りたい事情があるものです。いかなる事情によるものかはわかりませんが、私は皆さんにライトフライを捕るために必要なことを教えることができます。さて、皆さんはライトフライを捕れるようになる代償として私に何を支払ってくれますか?」

「現金でお支払いします。十万円でよろしいでしょうか?」

セカンドフライの講座を受講済のおじさんが言った。

「私がライトフライを捕れるようになったら、私が体験したことをなるべく正確に兄に伝えようと思います。それから兄にあなた宛ての手紙を書いてもらいます」

病気の兄がいるという少女が言った。

「あなたは私に何を支払ってくれますか?」

困った。僕はお金も持っていないし、病気のお兄さんもいない。僕は下手なくせに下手だと思われるのが嫌だった。僕は動画を見ていて、URLをクリックしたら、いつの間にかこうなっていたのだ。

「あなたは本当にライトフライが捕れなくて困っているのですか?」

いや、そんなに困っていないかもしれない。地域対抗の試合なんて一年に一回しかない。その時だけ嫌な思いをするだけだ。ひょっとするとライトに打球が飛んで来ないかもしれない。その試合でチームが負けたら何も困らないかもしれない。

「あの、僕は・・・」

「いい加減な気持ちでここに来てほしくないですね」

「まったくです」

・・・

気が付くとモニタ画面はスクリーンセイバーに切り替わっていた。色とりどりの曲線が自在に動いていた。僕は動画を見ていたのだった。そこにライトフライが捕れるようになりたいですかと表示されていたのだ。キーボードを操作してパスワードを入力する。ブラウザは動画サイトを表示していた。日本人メジャーリーガーがホームランを打ったという動画が選択されたままだった。