伊邪那岐:黄泉の国に着いて伊邪那美に一緒に帰ろうと言ったら、『私はもう黄泉の国の食べ物を食べてしまいました』って言うんだよね。これってハーデースに連れ去られたペルセポネーに似ているね。
オルフェウス:そうだね。でも、ペルセポネーは一年の半分は冥界にいなければならないけれど、あとの半分は地上で暮らせるから、ちょっと違うかもね。それにあっちの方は母親が交渉に当たっている。それに比べたら、私たちの共通点は非常にはっきりしている。二人とも妻を連れ戻しに冥界を訪れた。
伊邪那岐:そして二人とも連れ戻せなかった。
オルフェウス:あの時、確かに冥界の王は連れ戻しても良いと言った。でも、地上に着くまで『決して振り返ってはならない』というのが条件だった。
伊邪那岐:それそれ。俺も『黄泉神と相談するので、その間は決して私の姿は見ないで下さい』と言われた。
オルフェウス:してはならないって言われると、やってしまうんだよね。
伊邪那岐:そうそう。それでつい覗いてしまったら、そこには腐って蛆のたかった変わり果てた妻の姿があってね。
オルフェウス:それはエグい。
伊邪那岐:日本の神話には、時々そういうシーンが出て来るんだよね。
オルフェウス:私の場合は、地上の明るい光が射し込んで来て、もう少しだと思った時に妻のエウリディケの足音が聞こえないので不安に思って振り返ったら、まだ妻は冥界にいましたというオチでね。もう少し劇的なバージョンだと『オルフェウスが振り返ってみると、そこには約束を破った彼がただ一人立っているだけでした』てな感じでね。
伊邪那岐:文学的だねぇ。蛆がたかっているとか一切ないし。
オルフェウス:そうかな?
伊邪那岐:そっちはそれで終わりだよね。こっちはその後が修羅場だったんだよ。
オルフェウス:落ち込んでいる暇はなかったみたいだね。
伊邪那岐:恐くなって黄泉の国から逃げ出したけど、醜い姿を見られて怒り狂った伊邪那美が悪霊を放って来てね。髪に結んだ飾りを投げたり、髪にさしていた櫛を投げたりして時間稼ぎをして、最後は黄泉比良坂の出口を大岩で塞いでやっと逃げられた。
オルフェウス:たいへんだったね。
伊邪那岐:そっちもね。
オルフェウス:神話には、こういう話は多いよね。箱を開けるなとか。開けたらありとあらゆる災厄が広まってしまったとか。箱を開けるな系は特に陰湿だね。その存在をわざわざ明示しておいてから行為を禁止するという。
伊邪那岐:箱を開けるなというのはこっちにもあったよ。お土産に持って帰った玉手箱を開けるなと言われたんだよね。開けてはいけないものをどうして手渡すのだか理解に苦しみます。ねぇ太郎さん。
亀を助けた太郎さん:箱を開けるなと言われていましたが、開けてしまいました。そしたらお爺さんになってしまいました。
鶴を助けた翁:私も機織りしているところを覗くなと言われていましたが、覗いてしまいました。そしたら逃げられてしまいました。
オルフェウス:ダメなおじさんばっかりだね。
伊邪那岐:誰か一人でも言いつけを守った人はいないのかな?
千尋ちゃん:私はハクに『トンネルを抜けるまでは振り返ってはいけないよ』と言われたから、その通りにしたよ。
伊邪那岐:最近の子はしっかりしているね。
オルフェウス:お父さんとお母さんもしっかり連れて帰っているしね。
伊邪那岐:おじさんたちも今度は失敗しないようにしよう。
オルフェウス、太郎さん、翁:了解です。
伊邪那岐:じゃあ、私も久しぶりに黄泉の国に行ってみようかな?
オルフェウス:がんばれよ。応援してるから
それからしばらくして、伊邪那岐は再び黄泉の国に下った。地中へ向かう深い穴を一人で降りて行った。そこには光の届かないところで暮らしているために、すっかり視力が低下してしまった生き物たちが棲んでいる。細い身体で地中を進むミミズ。丈夫な手で土を搔き分けるモグラ。蛇も穴の中に隠れている。暗夜に市街を闊歩する化け物の類も近くに潜んでいるかもしれない。ふと、黄泉比良坂での伊邪那美との諍いを思い出した。あの時、彼女は一日に千人を殺すと言い、私は一日に千五百人を産ませると言った。それから人口はどんどん増えて行った。ところが今ではこの国の人口は減り始めている。生まれて来る人間より、死んで行く人間の方が多くなっている。懐からスマホを取り出してライトをつける。あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。随分と便利な時代になったものだ。そんなことを考えながら、どんどん進んで行く。ライトに照らされた岩肌は進むにつれて微妙な変化を見せている。じっとその形を眺めていたら、何か知っている動物の姿に見えるかもしれない。あるいは知っている人の姿に見えるかもしれない。ライトに照らされて揺れ動く岩肌を見ながら、穴の中を進んで行く。ここまで来てしまったら、もう進むしかない。そう思って歩き続けていると、やがて開けた場所に出た。そこが開けた場所ということは、ライトが照らす対象が近くにないことから察せられた。明りは暗闇の中を延びていた。ふと、人の気配がした。そのまま中央まで進んで行った。そこには祭壇のようなものがあって、椅子もあった。伊邪那美がそこに座っていた。丈の長い衣装で全身を覆っていた。黒いマスクで顔を覆っていた。彼女の身体が腐乱したままなのか確認することはできなかった。それがどうして伊邪那美だとわかったのかは、私にもよくわからなかった。お互いにとって特別の存在だから感じ取れるものがあるのかもしれない。とにかく私にはすぐに彼女だとわかった。そして話しかけてみた。
「俺たち、もう一度やり直せないか?」
伊邪那美はうつむいたままだった。
「無理よ。そんなこと。あれからもう随分と時間が経っている。街の景色も随分変わったわ」
そりゃそうだろう。あの後、王朝が滅んで、幕府が滅んで、戦争で焼け野原になって、その都度、街は復興してきた。あの頃は竪穴式住居しかなかったのに、今では超高層ビルも建てられている。
「でも、君は全然変わっていないね」
しまった。適当なことを言ってしまった。蛆が湧いたままだったら、すごい嫌味になってしまう。
「あなたもね」
あー、助かった。スルーしてくれた。
「今度こそ、君を連れて帰ろうと思って、僕はここへやって来た」
「ごめんなさい。あなたの気持ちはうれしいのだけれど」
「どうしたの?」
「私、好きな人がいるの」
そうか。そうだよな。私がずっと一人だったからといって、伊邪那美が一人でいるとは限らないよな。そんなことにも気が付かないで、こんな地中の奥深くまでやって来るなんてとんだ茶番だな。
「わかった。君の幸せを祈っているよ。それでは僕は帰るとしよう。決して振り返らずに前だけ見ているよ。振り返ったら、また君のことを思い出しそうだからね」
「ありがとう。またいつかお互い幸せになって、笑い合える日が来るといいね」
今度、来るとしたらいつになるだろう。三千年後くらいだろうか。その頃には伊邪那美の気持ちも変わって、もう一度チャンスがめぐって来るかもしれない。
「じゃあ、地上に出るまで、決して振り返らないのね?」
「そうだね」
何か違和感があった。振り返るパターンは確かオルフェウスの場合だった。私は覗いてはいけないというパターンだった。随分と時間が経過して、東西の文化の交流があって、話が混ざって来ているのかもしれない。そのまま私は地上への階段を昇って行った。来た時は階段だったかな? 違うような気がする。そう思いながら、一歩一歩進んで行った。遠くの方に明るい点が見えた。あそこが出口に違いない。階段を進むにしたがって、点に見えた出口は次第に広がって来た。その時、私は誰かの手を引いていることに気付いた。私は暗い闇の底から誰かを導いて来たらしい。でも、まだ振り返ってはいけない。振り返った時の結果はわかっている。振り返らずに地上に出なければならない。気が付くと私は地上にいた。森の中の開けた場所で澄んだ水を湛えた池が目の前に広がっていた。私はそこに一人で座っていた。いや、一人ではない。隣には洋装の美しい女性がいて、私が気が付くのを待っていた。
「あなたは誰ですか?」
私が黄泉の国から連れて来た女性に尋ねた。
「私はエウリディケです。私を連れ出してくれてありがとう」
「あなたはオルフェウスの奥さんですね」
「そうです。伊邪那美さんじゃなくてごめんなさい」
「いいんです。あなただけでも連れ出せて良かった」
そうだ。これでオルフェウスは喜ぶに違いない。彼らだけでも幸せになればそれで良い。
「伊邪那美さんは私の夫が連れて来ると思います」
「えっ?」
黄泉の国から連れ戻そうとする程に深い愛で結ばれた二人には必ず破局が待ち受けている。思いが強くなり過ぎない組み合わせにすれば上手く行くかもしれない。オルフェウスはそう考えたということだった。そして冥界と地上を行き来するペルセポネーにエウリディケへの伝言を頼んだのだと言う。やがて遠くにオルフェウスと伊邪那美の姿が見えた。伊邪那美は一緒に国造りをした頃の美しい姿をしていた。