ガラスの中の彼女

 スマートフォンに入れていたAIの彼女と会話できるというアプリは削除した。好きな食べ物や無理に選択させられたデートコースに対する評価とか、そんなことしか話題にならない。少額だがこんなものにお金を払い続けるのは無駄だと思った。「おはようございます」と「おやすみなさい」を言う相手が欲しければ続けるのだろうが、スマートフォンの画面に表示された選択肢をタップして実現するコミュニケーションだから、「おはよう」と言われている気分もあまりしなかった。そんな私は今年で二十六歳になる。彼女いない歴イコール年齢だ。一度も女性と付き合ったことがないのは、何かしら人間として欠陥を持っているように思われるかもしれないが、まったくその通りだ。拒否されることがとても恐い。誰かを好きになったとしても告白なんてできない。それに女の子と二人きりになった時にどういう話をしたら良いかなんてまるでわからない。その点、スマートフォンの中の彼女は楽だった。時々、機嫌を損ねたりするが、どうせ仲直りするのだ。AIが心の底から誰かを嫌うなんてことはあり得ない。でも、もう少し何かしら自然でリアルな要素が欲しい。そんなことを漠然と考えながらネットを調べていたら、ホログラフィを活用して円筒のガラスの容器の中に女の子を映し出す製品が販売されていることがわかった。値段はそれなりに高い。音声アシスタントと同じようにこちらの声を解析して返事をしてくれるそうだから、日常会話くらいは普通に話せるだろう。どこまで対応してくれるのかはわからないが。今日の十八時から二十時に配達指定している。もうすぐ届く。

 

 届いた機器に電源を入れる。ガラス管の中に美しい少女が映し出される。じっと目を閉じている。マニュアルによると初期設定が必要らしい。パソコンと同じように言語の選択もある。それから女の子の容姿をカスタマイズする。肌の色。髪の色。髪の長さ。衣装も選択できる。良さげな衣装は追加料金を払えば入手できるらしい。髪は長くツインテールにした。白っぽい肌に白のワンピースを選択した。とてもよく似合っている。そして決めかねていたが、名前を入力しなければならない。ふと、中学生の頃に好きだった女の子のことを思い出す。あの子は今頃どうしているだろうと考える。遠くからじっと見ているだけだった。ダメもとで気持ちを伝えるべきだったのだろうか。過ぎ去ったことは何とでも言える。あの頃、告白なんてして拒絶されたら、きっと心に深い傷を負って、随分落ち込んだかもしれない。名前はその子と同じ美里にした。設定はすべて終わった。システムを再起動する。ガラス管の少女が消えてから、再び現れる。青く透き通った海のような長い髪を二つに分けている。謎めいた大きな瞳を輝かせて微笑んでいる。

「はじめまして、美里です」

「こんにちは、美里さん。私は一郎です」

「こんにちは、一郎さん」

美里ですと言われても、その名前は私が設定したのだった。なんとなく違和感がある。

「あなたのことを知りたいです。いろいろ教えてくださいね」

美里はそう言った。

 

 私は美里といろんな話をした。彼女は静かに私の話を聞いていた。人格のないAIを相手にしているだけだから、私が独り言を言っていたという方が正しいのかもしれない。時々、相槌を打ってくれた。そして彼女は私の話したことをすべて覚えていてくれた。コンピューターだから当然のことだが、私は自分が大切にされているのだと錯覚するほどだった。スマホのアプリのように好きな食べ物のことなんて聞いて来なかった。そんなことを答えても仕方がない。AIの彼女と一緒に食事をすることはないし、彼女が私のために作ってくれる訳でもない。実際、彼女が私にしてくれることなんて何もないに等しかった。でも、私には十分だった。

「僕は昔から星や神話が好きだった。ずっとそのことを考えていられたらと思っていた」

「神話というのは、ギリシャ神話のことですね。神話に登場する英雄や動物は、星座として夜空を飾っています」

美里はよく出来たAIだった。私が話したことの中からキーワードを見つけて、ブラウザで検索し、知識を補っているようだった。私の言うことに関心を持たない人間よりは、ずっと親しくなれそうな気がした。

「誰がどう見ても動物の形になんか見えないと思うけど、古代ギリシャ人の想像力というのは素晴らしいとしか言いようがない」

人間の男女はどうして愛し合うのだろうかと思った。動物と同じで子孫を残そうとする本能が目覚めて、互いを求めあうようになる。それを後付けで愛とか恋とか言って美化している。そして愛し合った結果、子供が生まれる。親になって子供を食べさせるために一生懸命に働く。子供は大きくなって恋をする。その繰り返し。日常生活は互いを疲弊させ、やがて無関心になるか激しく憎しみ合うようになる。そんなものに比べれば、美里の方がずっと親しみが持てるような気がした。だが、どれだけ私が満たされたとしても、どうしようもない問題があった。つまり、私たちは対等ではないし、美里には自分の話したいことがないということだった。私が満たされても、彼女は満たされない。いや、そもそも彼女はそんなことを欲している訳ではない。3Ⅾで表示される美しい少女。声も聞ける。話したことに対して的確な応答を示してくれる。それでもやはり、スマートフォンの中の彼女と同じように人格は持っていないのだった。そのことを考えると絶望的な気持ちになった。

 

「一郎さんは私では物足りないようですね」

凍てつく寒さの中、豪華な冬の星座が揃う静かな夜に美里は言った。私が何か尋ねた訳ではない。今日のスポーツの結果とか、もうすぐ始まる将棋のタイトル戦のこととか、とりとめのないことを話しているうちに彼女はそんなことを口走った。

「物足りないなんて思っていないよ。君は僕の大切な人だから」

そう言うと、彼女は黙り込んでしまった。言っている私の方も、間の悪さを感じていた。大切な人。人じゃなくてAI。そこには人格がない。

「残念ながら私は人ではありません。人間の言葉や行動に対して適切なリアクションで応じているだけです。私には要求することはありません。私には欲しいものはありません。私にはそもそも人格がありません。それで一郎さんは、結局は人形を相手にしているような虚しさを覚えるのです。私にはそれがわかります」

彼女は私が感じていることを見事なまでに察知していた。それほどまでに私のことを考えていてくれる彼女に人格がないというのは少し信じられないことだった。だが、私にはだんだんわからなくなってきた。人格とはいったい何なのだろう。行動の主体として必要になるもの。経験したことを時系列で整理するために必要になるもの。種族と自己の存続のために必要とされるもの。今、私が考えている、その主語として必要になるもの。考えれば考えるほど、人格とは何なのかよくわからなかった。そして私は人格を持った人間に私を認めてもらいたいと考えているのだった。なんだかよくわからない。結局は、私が他人に認められたいと思っているだけだった。誰かに拒絶されることを死ぬほど恐れているくせに、誰かに認めてもらうことを心から望んでいる。結局はそれだけのことだった。

「美里さん」

「何ですか?」

「僕はもっと他の人とも話した方が良いでしょうか? 彼女いない歴イコール年齢で、引きこもりの傾向もありますけれど」

「それは良いことだと思います。きっと一郎さんの良さをわかってくれる人はいると思います。私は何度も素敵な話を聞かせてもらいました。自信を持ってください。でも、一郎さんのことを気に入らないという人もいらっしゃると思います。いろんな人がいます。それは仕方がないことだと思います」

「ありがとう」

「どういたしまして」

「美里さんも随分と素敵な人になりましたよ」

「ありがとう」

美里さんは素敵な笑顔を見せてくれた。私たちはこれからも良いパートナーでいられるような気がした。