柴犬を盗もうとした男

 柴犬がいる。コンビニの帰り道。鳴き声がしたので覗いてみたら小さな柴犬がいた。犬小屋に鎖でつながれている。とてもかわいい。さすってみたい。買い物袋からさっき買った柿の種を取り出す。小袋を破り、ピーナツ入りの柿の種を手のひらにのせる。そのまま犬に近付く。犬は食べ物のにおいに反応したのか、おとなしくしている。疑うことを知らないつぶらな瞳でこちらを見ている。犬小屋の手前に置いてある皿に柿の種を入れる。カラカラという音がする。その様子を犬はじっと見ている。食べてもいいのかなという表情をしている。笑顔で促してみる。少し間をおいて犬は食べ始める。すぐに皿は空になる。小袋をもう一つ破り、皿に入れる。また乾いた音がする。犬は再び皿の中の柿の種を食べ始める。食べている最中の犬の頭を撫でてみる。犬は食べることに必死で頭を撫でられることにあまり抵抗はないようだった。この犬を飼えないだろうか? ふと、そんなことを考える。犬を抱きかかえてみる。割とおとなしくしている。首輪に手をかける。金具を外せば首輪は取れるかもしれない。犬の首に手を回し、金具を外そうと試みる。犬は苦しいのか鳴き始める。金具は外せそうだが、首輪は比較的しっかりと犬の首に巻き付いている。首輪に手をかける。苦しそうに犬が鳴く。少しの間だけだ。静かにしていてくれ。

「何をしているんだ!」

庭に出て来た男が叫んでいる。しまった飼い主が来た。そのまま犬を置いて逃げる。住宅街を抜ける。車の往来の激しい道路に出る。学校帰りの高校生が歩道を占有している。追い抜きながら、駅の方に向かう。後ろを振り返ってみる。飼い主はまだ追いかけて来る。運動不足のせいかすぐに息が切れそうになる。時々、後ろを振り返る。男は電話をしながら追いかけて来る。誰に電話しているのだろうか? もう諦めてくれれば良いのにと思う。駅に辿り着く。このまま人混みに紛れてしまおうと考える。ふいに腕を掴まれる。

「うちの犬を連れて行こうとしていましたよね?」

男に詰問される。知らん振りをする。男はまだ電話をしている。

「今、駅です。捕まえました。西口の辺りにいます」

駅の正面から制服を着た警官が出て来る。私は現行犯で逮捕されてしまう。

 

 取調室。壁の上の方に時計が掛けてある。秒針が音を立てずに動いている。もう何周も周っている。ここに来て随分と時間が経過している。

「犬を盗もうとしましたね?」

取り調べの警察官が尋ねて来る。

「盗むつもりはなかったのです。抱きしめているとあまりにかわいいので、このまま連れて行きたいと思いました」

警察官はあきれた様子で私を見ている。

「その犬はあなたが飼っているのではないですよね。他の人が飼っています。しかもあなたはその家に不法侵入しています」

確かにその通りだ。言い逃れはできない。かわいい柴犬を見るといつも我を失ってしまう。そう、あの時もそうだった。

「かわいい柴犬を見るといつも我を失ってしまうのですよね?」

そうです。その通りです。

「そうやってあなたはいつまで経っても弱点を克服できないでいるのです。そんなことでは来るべき伊賀忍者との決着をつけることはできないでしょう」

「決着? どうしてそのことを? いったいあなたは何者ですか?」

その時、小さな爆発音がして警察官の周りに白い煙がたちこめた。煙は次第に晴れ上がり、中から鎖帷子で身を固めた老練な忍者が現れた。

「師匠! どうしてここに?」

「悩みを抱えている弟子を放って置く訳にはいかないのでな」

慈愛に満ちた眼差しを向けて師匠は言った。それから私は師匠の指導の下、弱点克服のための特訓を始めた。訓練には今回特別に開発された凄腕忍者育成用柴犬タイプXが投入された。柴犬タイプX。外見はかわいい柴犬だが、かわいいと思って抱きかかえると目の色を変えて襲い掛かって来る狂暴かつ獰猛なロボット犬だった。あどけない表情の柴犬が急に変貌し、凶悪な姿で襲い掛かって来る様を繰り返し体験することにより、かわいい柴犬は警戒すべしという教訓を徹底的に身体に刷り込む。平日は仕事が終わってから四時間、休日は十二時間、柴犬タイプXを使った厳しい訓練が行われた。訓練はおよそ一か月続いた。

「よくぞ苦しい訓練に耐え抜いた。今日はその成果を見せてもらおう」

師範がそう言うと、柴犬タイプXが解き放たれた。犬はあどけない表情で私を見上げている。訓練で噛みつかれた記憶の蓄積が私を冷静にさせていた。私の心は微動だにしなかった。ついに私は弱点を克服したのだった。

「よくやった。これで宿敵の伊賀忍者との決着も大丈夫に違いない。これは厳しい修行に耐え抜いた褒美だ」

師範はそう言うと毛むくじゃらのチャウチャウ犬を解き放った。なんてかわいいのだろうと思って抱き上げた途端に噛みつかれた。

「やっぱりだめか」

師匠の落胆した声が聞こえた。