天の羽衣

 かぐや姫は月に戻る時に迎えにやって来た天人に天の羽衣を着せられた。すると翁を不憫だと思っていた気持ちが、かぐや姫の心から消えてしまった。この衣を着た人は、思い悩むことがなくなってしまう。そして百人の天人を連れて月に戻り、不死の薬を飲み、永遠を生きることになった。心を失くしてしまうことは永遠の命を得るために必要なことなのだろうか? 生命は有機物の身体を持っていてそれ自体は安定していないが、個体が死を迎えても遺伝子の構造は次の世代に引き継がれ、長期間に渡って地上にその位置を占めることができる。引き継がれる遺伝子と有限の身体の個体。その身体を維持するために発達した脳。生き残るため、子孫を残すために異性を求め、思い煩う知性。かぐや姫に難題を突き付けられた公達は生きることに忠実であり、激しく思い煩っていた。天の羽衣を纏って心を失くしたかぐや姫はどうだろうか? 彼女はそれで生きていると言えるのだろうか?

 

 かぐや姫が月の世界に戻ってから千年後、地球から宇宙船がやって来た。この千年の間に地球の科学力は飛躍的な進歩を遂げて、月に到達できる宇宙船を作ることができるようになった。月の世界の天人たちは、宇宙船が着陸する様子をじっくり眺めていた。千年前には圧倒的な科学力で地上の人間共を圧倒した。地球に向かい、かぐや姫を迎え入れ、月に帰還した。あれから千年経って、今後は地球の人間がここまでやって来た。立場が逆転したのだろうか? そんなことはない。それに不死の薬で永遠に生き続ける私たちと違って、地球に住む人間は百年もしないうちに死んでしまう。やがて宇宙船は月に着陸した。そして扉が開いた。天人たちはその様子をうかがっていた。天人たちの後ろには、かぐや姫その人がいた。開いた扉の向こう側から長い板のようなものが出て来て、月面に達した。板は形状が変化して階段になった。宇宙船の中から帝と五人の公達が現れ、月面に降り立った。千年前にかぐや姫に思いを寄せた帝と公達が、長き沈黙を経て今、月面に降り立っている。五人の公達は各々が手に何かを携えている。公達のうちの一人が進み出た。その公達は、やさしい緑色の光を放つ鉢を携えていた。これは草の葉に着いた露ほどの光だけでも発するというあの鉢なのだろうか? そうであれば本物の「仏の御石の鉢」に違いない。

「ウランガラスで作った鉢です。ウランと言っても微量ですので人体に害はありません。どうですか。綺麗でしょう? ガラスにウランを混ぜて食器や雑貨が作られるようになったのは、やっと十九世紀になってからのことです。千年前にこれがあったなら、私は求婚者として認められていたかもしれません」

そういうと公達は下がった。次に隣に立っていた公達が進み出た。とても美しい木の枝を手にしていた。根は眩いばかりの白銀で、茎は黄金のように、実は真珠のように輝いていた。だが、これは本当に木の枝なのだろうか? そうであれば本物の「蓬莱の玉の枝」と言えるだろう。

「銀や金といった金属と木という生命体が混じり合うことはあり得ません。しかし私たちの現在の技術力を持ってすれば、銀と金と真珠を合わせた木の枝のようなものを作ることは容易です。千年前とは違って、職人には賃金を払っています。千年前にそうしていたなら、私は求婚者として認められていたかもしれません」

そういうと公達は下がり、その隣にいた布を持った公達が進み出た。

「これはステンレス繊維でできた布で不燃です。ステンレス繊維やアモルファス繊維などの金属繊維、それからセラミック繊維、ガラス繊維も不燃性です」

燃えない布であれば「火鼠の裘」と同じと言える。千年前とは違って、今では金属や無機物を素材として活用することができるようになっている。

「千年前にこの技術があったなら、私は求婚者として認められていたかもしれません」

その隣の公達は五色に光を放つ美しい珠を手にしていた。これは本物の「龍の首の珠」なのだろうか?

「これは発光ダイオードを組み合わせて光を出しています。一昔前は青色の光を作るのが難しかったのですが、今では量産技術も確立し、価格も安価になりました。本物の龍の首にあったものかと言えばそうではありませんが、でも美しいでしょう? 千年前にこの珠を持って来ていれば、私は求婚者として認められていたかもしれません」

その隣の公達は大きな貝を手にしていた。これはあの「燕の子安貝」なのだろうか。

「龍が実在しないのと同じで、燕が子安貝を産んだりはしません。でも、どうです? ここのところに羽根があるでしょう? 今では遺伝子に関する研究が随分と進んでいます。違う動物を組み合わせたキメラもできてしまいます。燕と貝のキメラもできるかもしれません。燕が産んだ貝ではないですけれど。でも遺伝子工学が格段に進歩すれば、できるようになるかもしれません。そうすれば、私は求婚者として認められることになるかもしれません」

五人目の公達がそう言うと彼らは揃って宇宙船に戻って行った。そして帝がただ一人、残った。

 

 帝は懐かしそうな面持ちでずっと、かぐや姫を見ていた。

「美しい。あの頃と何も変わっていない」

帝は言った。

「あなたもあの頃のままですね」

かぐや姫が言葉を返す。

「あなたにもらった不死の薬。燃やしてしまおうと思ったのですが、やめました。あなたが月に帰ってしまって、追う手立てを持たない私は絶望しました。もう二度と会えないのだと。その時、ふとある考えが浮かんだのです。月の世界の住人は、月と地上を行き来する手段を持っている。地上の人間もいつかあのような乗り物を作ることができるようにはならないかと。いつそうなるかはわからない。でも、不死の薬を飲んでずっと待ち続ければ、いつかその時が来るのではないかと思いました。そして私は待ち続けました。いつの時代も地上では争いが絶えることがありませんでした。ですが、その争いに勝つための欲望が少しずつ地上の技術を進歩させていきました。やがて、千年の時が流れました。遂に地上の人間は月に達するための乗り物を作り出すに至ったのです。そればかりではなく、あなたが五人の公達に持って来るように言った「仏の御石の鉢」「蓬莱の玉の枝」「火鼠の裘」「龍の首の珠」「燕の子安貝」も地上の人間は作り出せるようになったのです」

帝は言葉を重ねていった。今、この瞬間のために千年待ったのだった。

「遥々会いに来ていただき、ありがとうございます」

かぐや姫はそう言った。彼女はうれしくなかったのだろうか? いや、彼女は天の羽衣を着せられた時から思い悩むことがなくなっている。あの時、翁を不憫だと思っていた気持ちも羽衣を着ると一瞬にして失われた。そのことは帝も知っていたのではなかったか?

「あなたに会いたいという気持ちでここまでやって来ましたが、それとは別にあなたにどうしても確認したいことがあります。あなたに聞いて答えが返って来るのかもよくわかりませんが、いちおう聞きます。どうして、あなた方は心を失くしてしまおうとするのでしょうか?」

かぐや姫は静かに帝の話を聞いていた。帝の質問に対しては押し黙ったままだった。

「私は思い煩う自分のままで良いと思っています。哀しいことも、辛いことも、たくさんありました。あなたに会えなかった千年もとても辛いものでした。でも、こうして会えてとてもうれしい。思い悩む気持ちと喜ぶ気持ち。どちらも大切なものです」

静寂が月面を支配していた。穢れた地上に比べて、ここは清らかな世界に違いない。塵一つない。一切が清潔に保たれている。何も変わることのない世界。ずっと平穏に満ちている。

「私は罪を犯してしまって、その刑期が終わるまで地上に住むことになったのです」

かぐや姫がようやく口を開いた。

「罪を犯すということ。誰かに対して不利益や危害を与えてしまうこと。心が平静に保たれていれば、そのようなことは生じないはずです。現に月の世界ではずっと平穏が保たれています。天の羽衣を着た人間は思い悩むことから解放されます。天の羽衣が、この世界から罪を取り除いてくれているのです」

「それは同時に喜びをもあなたから奪い去ってしまうものですね。世話になった翁に対してさえ、あなたは冷淡になりました。喜びもなく、哀しみもなく、育ててくれた人に対して感謝の気持ちもなく、あなたはそれで幸せなのでしょうか?」

かぐや姫はまた黙り込んでしまった。月に住む人々は、心を乱すことなく、罪を犯すことなく、平穏に暮らしている。その時、帝はふと考えた。どうして、かぐや姫だけが、わずかの間ではあったが、地上に住んでいたのかと。他の天人たちは、ずっと月に留まっているというのに。彼女は他の天人とは何か違うのではないか、帝はそう思った。かつて彼女が罪を犯したのであれば、その発端となった心の揺らぎがあったに違いない。それは今、天の羽衣により抑え込まれている。だが、いつかその心の揺らぎを彼女が取り戻すことがあるかもしれない。それはもともと彼女に備わっていたものなのだ。

「いまはとて 天の羽衣 着る時ぞ 君をあはれと おもひいでぬる」

(最後だと、天の羽衣を着るまさにその時に、ふとあなたをしみじみと思い出してしまうものね)

帝は千年前、彼女が地上を去る時に詠んでくれた歌をそっと呟いた。彼女の瞳は溢れ出る涙で潤んでいるように見えた。