AI百景(9)料理の鉄人

 かつて料理の鉄人という番組があって、料理人が自慢の腕を競い合っていた。そこには決して打ち負かされることのない強者としての鉄人がいた。そして今、本当の意味での料理の鉄人が誕生した。それはすぐれたAIを搭載したキッチンロボットだった。料理人の能力を測るものは何か? 鮮やかな包丁さばきだろうか? 食材の創造的な組み合わせだろうか? 絶妙な調味料の加減だろうか? でもその前に味とはそもそも何なのだろうか? 甘いとか辛いとかすっぱいとか、身体に摂取して良い食べ物かを判別するための刺激がいつしか料理人や美食家の優劣を決める尺度として用いられるようになった。敵と餌と異性の存在を察知するために発達した視覚や聴覚も、いつしか美術や音楽の優劣を測る物差しとして使われるようになっている。美食や芸術というのは、ちょっと行き過ぎたところがある。それだけのことで人間の価値が決められてしまうこともある。だが微妙な差異を識別するというのであれば、人間よりも機械の方が勝っているかもしれない。甘さや辛さを感じる受容体と同じ仕組みを、機械的に成分を分析する仕組みに置き換えれば、人間より鋭敏に違いを検出することができるだろう。だがその時、機械は美味しいと思っているのだろうか? 美しい調べも美しい絵も美味しい料理も人間が感じ取るものであって、機械はそれと同じ何かを検出しているだけだ。でも本当にそうだろうか?

 

 そのキッチンロボットは味覚を持っているように見えた。世界中のありとあらゆる料理の成分を細かく分析したデータを内蔵していた。料理店に星をつけて格付けする人々と同じように世界中の名店の料理を味わい尽くし、その時の体験を感性的な記憶として保持しているようだった。私たちにはそう見えた。

「このロボットは文字通り料理の鉄人なのです。可動部が主に金属でできているという意味もありますが、驚嘆すべきはその味覚であり、人間の手では到底真似のできない切り口であり、焼き物や蒸し物に必要な火加減の精密な再現性です。どんなシェフにも劣ることはありません。フレンチもイタリアンも中華も何だってOKです。もちろん繊細な日本料理も大丈夫です」

美食家があまりの美味しさに驚嘆して、料理人に会わせてくれと言って厨房まで来たことがあった。誰が作ったのか美食家は聞きまわったが、首を縦に振る料理人はそこにはいなかった。そこには繁盛記の手伝いに来たキッチンロボットがいただけだった。真相を知った美食家はしばらくショックを受けていたようだった。味のわからない人々を見下して来た彼は、ロボットの料理に感嘆させられたことを恥じていたのかもしれなかった。

「鉄人の勝利です」

多くの料理人が料理対決を挑んだ。そのキッチンロボットに勝てる人間はいなかった。判定するのはいずれも著名な美食家か料理評論家だった。味というのが主観的な要素で決まるのか、客観的な要素で決まるのかはよくわからなかった。だが判定がすべてキッチンロボットを支持するというのは、そこに客観的な傾向があることを暗示していた。本当にそうなのか?

「私は人間と同じようにクオリアを持っています。甘さの成分が何か? 辛さの成分が

何か? そういうことではなく、甘さと辛さを質感として認識しています」

ある日、キッチンロボットが言った。本当にそうなのか誰もわからなかった。誰もが赤というクオリアを持っているのだとしても、他人が持っているクオリアがどういうものであるかを知る術はない。もしかしたら私が持っていると思っているこのクオリアというのは錯覚かもしれなかった。赤という色の持つ質感。舌の上でほどけていくトロの食感。それは本当は錯覚なのかもしれない。主観的な現象というのはすべて錯覚なのかもしれない。それは単に生き物を自律的に行動させるための仕組みなのかもしれない。

「実はロボットに自分を人間だと思わせる命令を与えていたのですよ」

ある日、キッチンロボットの設計者がそう言った。クオリアがあるとロボットが言っていたのはそのせいかもしれなかった。

 

「実は人間に体験をリアルに実感できる仕組みを与えていたのですよ」

もしかしたら、私たちの知らないところで神々がそんな話をしているかもしれなかった。