自動改札

 自動改札を抜ける時にピンポンが鳴った。扉は固く閉じて私の侵入を拒み、定期をかざした部分は赤く点滅している。後ろに並んでいる人たちの指すような視線が気になる。舌打ちして不快感を露わにする人もいる。隣の改札に割り込んで行き過ぎる図々しいビジネスパーソン。何で割り込んで来るんだよという目を向けつつも仕方なしに受け入れる人たち。後ろに並んでいた人たちはもういない。塞がった出口を回避する新しい秩序がすぐに構築される。人々は無言で改札を抜け、散り散りに己が目的地へと向かって行く。その無意識で規則的な行動を阻害する不届き者には一切かかわりたくない。そんな雰囲気が感じられる。通行を許可されなかった私は仕方なく改札から離れる。詰所に向かい、駅員に事情を説明する。不正を働いている訳ではない。駅員もなんでそうなったのか、ちょっとよくわからないですねという顔をしている。もう一度、試してもらえませんかと言われたので、人が少なくなった頃を見計らって定期をかざしてみる。扉はすぐさま反応し、規律正しく私に道を開いた。いったいさっきのは何だったのだろうと思いながら私は改札を抜け、会社に向かった。

 

 それからも一か月に一度くらいの頻度でピンポンが鳴った。定期の接触が悪いのだろうか? いや、そんなことはないだろう。そして私はピンポンの鳴った時は、もしかしたら私に落ち度があるのかもしれないと思った。たとえば身だしなみが良くないとか、健康状態が良くないとか。自動改札はピンポンを鳴らすことで、そのことを私に気付かせようとしてくれているのかもしれない。注意を払うよう警告してくれているのかもしれない。そんなことを考えるようになった。

 

 やがて一か月に一度程度だったピンポンの鳴る頻度が、一週間に一度くらいになった。私は週に一度、電子音と赤い点滅に遭遇して恥ずかしい思いをするようになった。

<また、あなたですか?>

さすがに週に一度くらいになると、そう思われてしまいそうだった。通勤というルーティーンはけっこう正確なものなのだ。人々が毎日乗る電車の時刻はたいてい決まっている。そして電車を降りて改札までの道筋も身体にしっかりと刻み込まれている。その人が決まりきった毎日のルーティーンに従っていれば、自動改札の前で立ち往生している私の後ろに来る確率は相当高くなる。そして私は、また、あなたですか?という目で見られてしまうことになる。それにしても今日はいったい何が良くなかったのだろうか? 服装が乱れていたのだろうか? 歯は朝食後にちゃんと磨いているので問題はないはずだ。でも時々、髭を剃るのを忘れることがある。自動改札は私の無精ひげを咎めているのだろうか? そう思って顎を撫でてみる。どうやら髭はしっかり剃れている。あるいはそうではなくて、単に元気の足りない私を励まそうとしてくれているのだろうか? よし、明日からは元気良く改札を通り抜けよう。そういえば最近は仕事のミスが続いて、少し落ち込んでいたような気がする。おいしいものでも食べて、気分転換した方が良いかもしれない。そうだ。たまには、鰻でも食べて元気をだそう。そして私は翌日から、元気よく改札を通ることを心掛けた。そうするとピンポンが鳴る回数が減った。二週間に一度くらいになった。きっと前向きな気持ちで毎日を過ごしていれば、ピンポンが鳴る回数も減るのだろう。そして三週間が過ぎた。この好調をなんとか維持しようと考えながら、改札まで来ると、いつも通っている自動改札機が工事中だった。それから一週間、ずっと工事中だった。私は仕方なく、隣の自動改札機を通っていた。一週間後にようやく工事が終わった。やっとあの改札機を通れると思いながら、通り抜けた。ピンポンは鳴らなかった。それから何事もなく日々が過ぎて行った。一か月経っても、二か月経っても自動改札機は沈黙していた。そして三か月が過ぎた。私はピンポンが鳴るのを待ち望んでいた。そして自堕落な生活を過ごすようになった。髪はぼうぼうで髭も剃らずに過ごしていた。歯も磨かず、ひどい口臭だった。いつも同じ服を着ていた。外食が多くなった。だが、自動改札機は何も語り掛けてはくれなかった。それでも私は毎日、あの自動改札機を通り抜けている。今日こそはピンポンが鳴ってくれないかとドキドキしながら通り抜けている。

キューピッド

 恋は唐突にやって来た。藤堂先輩のことを考えると胸が苦しくて仕方がない。この想い、なんとか叶えることができないだろうか? でも先輩はいつもあの白鳥家のお嬢様と一緒だ。二人は恋人同士なのだと噂されている。私なんかじゃ絶対に手が届くはずがない。そう思ってあきらめようとしても、私の中の聞き分けの悪い恋心は、まるで言うことを聞こうとはしないのだった。

「どこかにキューピッドがいないかなぁ」

私はため息をついた。キューピッドの恋の矢があれば、手っ取り早く想いを叶えることができる。そんな都合の良いことがあるはずはないのだが、それくらい私は途方に暮れていたのだった。

「呼んだか?」

声のする方に振り向くと、そこには黄色のスーツを来た変なおっさんがいた。パンチパーマで吊りあがったサングラスをかけている。

「てめえなんて呼んでねえよ!」

マジで頭に来たので思わず乱暴な言葉を吐いてしまった。本当はこういう手合いは相手にしないのが一番なのだ。

「いや、でも、キューピッドって言ったやん?」

この恰好で関西弁。やはりこいつは相手にしてはいけない類の人間だ。そう考えて、私は男を無視し、そそくさと歩き始めた。

「ちょっとまったれや、お嬢ちゃん! 藤堂先輩のこと好きなんやろ?」

なんで先輩のことをこいつが知っている? 私は疑惑の目を男に向けた。

「せやからワシが助けてやろう、言うてんねん。ワシは、ほんまもんのキューピッドやさかいにな」

いや、どう見ても違うだろう。キューピッドというのは子供のような成りで、ほとんど裸でふくよかで頭はちょっとくせのある金髪で、白い丈夫な翼が生えていて宙を漂っているものだ。それになにより弓と矢を持っていなくてはならない。恋を叶える弓と矢を。

「子供じゃない!」

「いや、本当はキューピッドも年を取るもんなんや」

「翼がない!」

「あれちょっと目立つんで、背広の中にしまい込んであるんや」

「弓と矢を持っていない!」

「そんなもん昔のキューピッドが使ってただけや。今じゃ技術革新でこういう立派なものに置き換わっとる」

そう言いながら男は懐から何かを取り出した。チンピラのくせにチャカを持っているのかと思って一瞬、うろたえた。男が手にしていたものはいちおう銃の形をしていたが、カラフルでふっくらと丸みを帯びていて、尖った先端には穴がなく、弾丸が飛び出る気配がまるでなかった。鈍色をして、取り返しのつかないことを引き起こしてしまう何か威厳のようなものを備えた本物の銃とは似ても似つかない代物だった。

「何? それ? おもちゃ?」

私は笑い転げながら言った。昔、おもちゃ売り場で見た子供向けのおもちゃの銃に似ていると心底思っていた。

「これは光線銃や。これで意中の人の胸を射貫けばええんや。射貫かれた人間はその時、見た者に夢中になってしまう。そういうありがたい光線銃なんや」

まぁなんとなくキューピッドの矢と整合性が取れているようだった。本当に使えるかどうかはわからないが。

「おっ、向こうから誰か歩いてくるやん」

その声につられて視線を向けると、藤堂先輩が歩いていた。

「お嬢ちゃん。あの兄ちゃんが好きなんやろ? ワシにはわかる。キューピッドには生まれつきそういう嗅覚が備わってるんや」

キューピッドの嗅覚のことは知らないが、男の言っていることは当たっていた。私は恥ずかしくてうつむいていた。

「いまがチャンスや! ワシがこの光線銃をぶっ放してあの兄ちゃんに当てる。その瞬間に見ていた者にあの兄ちゃんは恋をしてしまう。その時、お嬢ちゃんはしっかりとあの兄ちゃんを見てるんや!」

しゃべり方はともかく、なんとなくキューピッドが切ない恋を叶えてくれるような内容の話だと思った。

「お嬢ちゃん! 準備はええか?」

いきなりの展開に多少の戸惑いはあったが、私はこくりと頷いた。

「ほな、いくで」

そう言って男は右手に持った光線銃を先輩に向けた。人差し指がトリガーにかかっていた。先輩はゆっくり歩いている。恥ずかしがっている場合ではない。しっかりと先輩の方を見なければ、そして私の姿をその瞳に焼き付けてもらわなくてはならない。

「発射~」

男がそう言った瞬間、銃の先端から七色のビームが発射された。ビームは螺旋を描きながら真っ直ぐに先輩の方へ向かっていった。もうすぐ当たると思った瞬間、先輩の前に立ちふさがる何者かの姿があった。

<秋田犬?>

そう思った瞬間、七色のビームが秋田犬に命中した。その時、犬と目が合った。途端に犬の表情が喜びに満たされているように見えた。犬は私の方に駈け出すと勢いよく私にジャンプして来た。その場に私は押し倒された。犬は私の頬をなめまわしていた。

 

「さっきはすまんことをした」

キューピッドが頭を下げていた。

「いや、別に犬に好かれるのはそんなに嫌じゃない」

バカにしていた光線銃の効果に驚きながら私は言った。私の恋が破綻してしまった訳ではないのだ。もう一度、やり直せばいいだけだ。

「あの辺りは犬を散歩させている人が多いからね。もっと学校の近くの方がいいかもしれない」

そしてキューピッドと私は作戦を練った。先輩の登下校ルートはしっかり把握している。地図を見ながら候補地をピックアップする。周辺の犬の散歩ルートは十分に考慮する必要があるだろう。公園まで行って戻って来るパターンが多いから、その辺りを避ければ問題はなかろうということになった。

「今度こそ、役に立てると思うとワシはうれしいわ」

キューピッドは楽しそうだった。人の気も知らないで気楽なものだと思った。そして私たちは先輩の登下校ルートから最適と思えるポイントを選び、待ち伏せすることにした。下校時間が来ると私は一目散に駈け出し、キューピッドの待つ場所へと向かった。

「もうそろそろやな」

先輩はゆっくり歩いていたから、あと五分くらいでここに来るだろう。そして私はタイミング良く先輩の前にゆっくり歩み出て、キューピッドが光線銃を発射するのを待つ。犬はこの辺りにはいないはずだ。主要な散歩ルートからは外れているし、この近所に犬を飼っている家がないことは調べてある。

「来たで!」

先輩が歩いて来る。私は何気ないふりをして歩み出た。先輩はまだ気付いていない。ゆっくりと近付いて行く。距離が縮まって行く。もしかしたら数分後には心の距離がぐっと縮まっているかもしれない。そんなことを夢見ながら歩いて行く。私は先輩の方をずっと見ている。早く気付いて。私の気持ちに気付いて。そう思っていると先輩が私の姿に気付いてにっこり笑う。先輩が私を見ている。光線銃を撃つなら今だ。そう思ってキューピッドのいる方を見る。キューピッドはすでに狙いを定めている。安心して私は先輩の方を見る。その時、先輩の前に立ちふさがる何者かがいた。

<げっ! 白鳥麗華! 何でこんなところに>

そこには名門白鳥家の令嬢、白鳥麗華が立っていた。やばい。発射は中止だ。そう思って振り返るとすでに七色の光線が放たれた後だった。ビームは螺旋を描きながら白鳥麗華に命中した。白鳥麗華と目が合った。いつもは吊りあがって高慢と自信に満ちている彼女の視線は、その時、うっとりと私を見ていた。

「わたくし、あなたと友達になっても良くってよ」

彼女は言った。

 

「またやってもうた」

キューピッドは落ち込んでいた。

「いや、別にご令嬢の友達になるのが悪いという訳ではない。ちょっとめんどい子だけど」

私は言った。今回も私の恋が破綻してしまった訳ではないのだ。だが私は少し考え込んでいた。やはり卑怯な手段で恋を成就させようとしている私の心掛けが良くないのではないだろうか? 秋田犬と白鳥麗華は身をもって私にそのことを教えてくれているのかもしれない。

「やっぱりさ、自分自身の気持ちを素直に伝えた方がいいんじゃないかと思う」

私は言った。

「せやな。それやとワシの役割はのうなってしまうけど、それが一番や。お嬢ちゃんは立派や!」

キューピッドは言った。いや、立派じゃない。いざ告白するのだと思うと私は激しい不安に襲われた。遠くから見つめているだけでも良いのではないか? そうすれば決定的な状況は回避することができる。そうなってしまったら私はどうなってしまうのだろう? その時、私は不安に慄いていた。

「全然、立派じゃない! 私、恐くて震えているのよ!」

私は言った。キューピッドは黙っていた。晴れ渡った空を仲間と飛んでいる鳥の鳴き声が聞こえた。爽やかな風が吹いていた。

「キューピッド。お願いがあるの」

「何でも言うてみ。ワシにできることやったら何でも手伝うわ」

「私、自信がない」

「みんなそうや」

「光線銃、ちょっとだけ貸してくれる?」

「何に使うんや?」

「私、自分のことをもっと好きにならなければいけない。自分に自信を持たなければいけない」

それから私は家に帰り、鏡の前で光線銃を胸に当てトリガーを引いた。私は少しだけ自分のことが好きになったような気がした。

 

「残念やったな」

勇気を奮い立たせて私は思い切って先輩に告白したが、あえなく撃沈してしまった。でも後悔はなかった。

「今までありがとう」

私はキューピッドに丁重にお礼を言った。

「ほんじゃ、帰るわ」

「困った人がいたら助けてあげてね」

そう言って私たちは別れた。キューピッドが派手な黄色の背広を脱ぐとそこには立派な翼が生えていた。そしてその翼を勢い良くはためかせ、大空高く舞い上がって行った。

妻が巨大ロボになった

 いつの間にか、妻が巨大ロボになっていた。いつからそうなのか、よくわからなかった。今朝、気付いたが、もしかしたら昨日からそうだったかもしれない。あるいはもっと前からそうだったかもしれない。彼女との間に良好なコミュニケーションを維持して来たという自信はまるでない。夫婦関係はいつしか希薄で空虚なものとなっていた。妻が巨大ロボになったのは、その当然の帰結であったかもしれない。あるいは彼女の無言の抵抗かもしれない。そうした軽微とは言えない状況の変化にもかかわらず、日常生活は変わりなく続いていた。私は仕事に出掛け、帰って来ると妻の作った料理を食べた。時々、妻の顔を覗き込んでみた。ひし形をした黄色い切れ長の目は平坦でつかみどころがなく、そこから妻の本意をうかがい知ることは難しそうだった。固く閉じられた口元には笑いはなかった。そもそも口の開いたロボットなんていないのだ。彼女はロボットになることで、微笑みを自ら放棄してしまったのかもしれない。でも以前からそんな感じだったかもしれない。会話のないリビングルームでテレビは一日の出来事を伝えていた。世の中では今日も誰かが悪事を働いていた。特大のホームランを打った人がいて、素晴らしいゴールを決めた人がいた。今日も昨日と同じで、明日も今日と同じだろう。そう思っていたが、実際には無表情で無機質な妻の姿は私の心を少しずつ浸食していた。私はいつしか抑えきれない衝動を抱えてしまっていた。

<操縦してみたい>

ずっと巨大ロボと一緒にいるのだ。男なら誰でもそういう気持ちになるに違いない。巨大ロボと一緒にいて、操縦したいと思わない男などいるはずがない。でもそんなことが許されるのだろうか? 妻にそんな大胆なことが言えるだろうか? それから苦闘の日々が続いた。目の前に巨大ロボがいる。操縦したくてたまらない。私は悶々としていた。もしかしたら、プラスチックでできたマニュアルをめくって必死にロボットの操作手順を調べているアニメの主人公のようになれるのではないか? いつもただ見ているだけだった。今こそ、行動を起こす時なのかもしれない。受け身だったこれまでの人生を捨てて、未知の世界へと飛翔する。今がその時なのだ。そうやって気持ちを奮い立たせようとがんばってみたが、妻にはなかなか切り出せなかった。だが、操縦したいという衝動も容易に抑え切れるものではなかった。ある日、とうとう我慢できなくなってしまった私は強引に操縦席に座ろうとした。

「何をするのよ!」

無口な妻が、あるいは無口な巨大ロボが、声を張り上げて抵抗していた。

「一度でいいから操縦させてくれ!」

私は必死に懇願していた。

「いつまでもあなたの思い通りになると思ったら、大間違いよ!」

妻は叫んだ。思い通りだなんて。いや、妻が思い通りになるなんてこれっぽっちも思っていない。私はただ思い通りに巨大ロボを操縦したいだけなのだ。でも妻は嫌がっている。仕方がない。ここは彼女の意思を尊重するしかなさそうだった。

「ごめん。僕が間違っていた」

私は心から謝罪した。

「わかればいいのよ」

妻はポツリと言った。確かに今までの私は身勝手すぎたような気がした。すべて私のせいなのだ。

「ちょっとだけなら、操縦してもいいのよ」

しょんぼりしている私を見かねてか妻は言った。

「本当?」

その時、私は天にも昇る気持ちだった。憧れの巨大ロボを操縦できる日がとうとうやって来たのだ。まさに人生最良の日と言えるかもしれない。

「そんなに瞳をキラキラさせて、あなたって子供みたいね」

妻は言った。私は妻の気が変わらないうちにと思って、さっそく操縦席に座った。少しひんやりとしていた。ヘルメットをかぶり、スイッチを押した。すぐに周囲が全方位的に状況を見渡せるスクリーンに切り替わった。死角のない情報がリアルタイムに伝達されて来る。それから足元のアクセルを踏んで少し感触を試してみた。

「すごいパワーだ!」

私は感動していた。

「準備はいいかしら?」

妻の声に応えて私は操縦桿を手元に引いた。力強いうなり声と共に巨大ロボが始動した。

「素晴らしい」

巨大ロボは大地にしっかりと立っていた。操縦席から見る街並みは素晴らしかった。

「これから私たちでこの街を守って行かなくてはならない」

妻は言った。そうだ。感動ばかりしている場合ではない。私は重大な責務を背負ったのだ。人々の暮らしを守るためにベストを尽くさなければならない。

「そこに青いボタンがあるのわかる? それを押してみて」

妻は言った。これかと思って、その青いボタンを押してみた。みるみるうちに巨大ロボは変形を始めた。

「これは?」

「飛ぶわよ」

妻は言った。そして轟音と共に巨大ロボは空高く舞い上がった。いや、もう巨大ロボではない。それはいつの間にか飛行形体へと変わっていた。

「すごい! なんてすごいんだ!」

大空を駆けながら私は思った。

「君と結婚できて本当に良かったと思っている」

私は心からの感謝の意を伝えた。

「あなた。さっきより目が輝いているわね。そういうところとても好きよ」

「僕もだ。君のことが大好きだ」

見下ろせば緑の大地が広がっている。家も車も豆粒のようだ。空はどこまでも青く、清々しい気分だった。そう思った瞬間、遠くの空にキラリと光るものがあった。

「あなた! 油断しないで! レーダーを見るのよ」

妻に言われてレーダーを見ると、こちらに近付いて来る機影が三つあった。

「さっそくお出ましになったわね」

「どういうこと?」

何が何だかわからない私は質問を投げかけた。

「きっとウェストリアの差し金に違いない。あなた。油断しないで!」

「了解した。でも、どうすればいい?」

「照準を合わせて、敵機が中に入ったら、赤いボタンを押して!」

「押すとどうなるの?」

「敵機めがけてビームが照射されるのよ!」

「ビーム!!!」

その時、私は非常に興奮していた。なんて素晴らしい妻だろう。ビームまで持っているなんて。

「来たわ。撃って!」

私は言われるままにビームを発射した。敵機は瞬く間に粉砕された。

「すごい。さすがだわ!」

「君のおかげだよ」

その時、私たちは心からお互いを必要とし、理解し合っていることを確認した。

「これからもずっと一緒にいてください」

あらためて私は言った。

「恥ずかしいから、そんなこと真顔で言わないでくれる?」

妻は少し照れているようだった。西の空では太陽が傾き始め、その姿を地平線に隠そうとしていた。真っ赤な夕焼けが一つになった私たちを祝福しているようだった。

AI百景(40)レジェンド

 著名なアーティストの声をAIで再現し、往年のヒット曲や自分たちの作ったオリジナル曲を歌わせることが流行っていた。大手の音楽レーベルはそうした著作権に違反する行為を見つける度に警告を発していた。見つかってしまったサイトはすぐに閉鎖されたが、一週間もすると同じコンテンツを揃えたサイトが出現するのだった。かつて新しいアルバムのリリースを待ちわび、ライブに足を運んだ人々は、古き良き時代が再来したように感じていた。生まれるのが遅すぎて、生けるレジェンドを見たことのない人たちもサイトを訪れていた。昨今の音楽は何もかもが矮小化してしまっていると彼らは感じており、何でも良いから本物に触れてみたいという思いが強いようだった。無料でなくても良かった。本当に好きなものに対してなら、喜んでお金を払いたいと彼らは考えていた。父親が自分と同じくらいの年齢だった頃、新しいアルバムの発売を心待ちにしていて、貯めていたお小遣いを持ってレコード店に買いに行ったという話を聞いた若者は、自分もそんな時代に生まれてみたかったと考えていた。その頃に比べると音楽作品はどんどん安っぽくなってしまった。レコードやCDといった物理媒体をレンタルする時代が訪れ、やがて物理媒体は音楽ファイルに取って代わられた。今ではストリーミングで音楽が垂れ流されるようになった。貯めていたお小遣いを使う機会は何処にもなかった。

 

 フレディ・マーキュリーが知らない曲を歌っていた。聴いたことはないが、どこかで聴いたことのありそうな曲だった。AIを使えばクイーンっぽい曲が作れるのかもしれなかった。それは確かに自分が生まれる前に死んでしまっていた彼の声だった。

<これじゃない>

彼は思った。レジェンドはもうどこにもいなかった。本物と出会えたとしたら、もしもその時代に立ち会えたとしたら、どんなに素晴らしいことだろう? そう思ってここにやって来た。でもここにあるのはまがい物だった。人々は悪気があってそうしているのではないのだと彼は思った。失ったものがあまりに大きすぎて、胸のうちに空いてしまった穴を埋めるには自分の人生が長すぎて、やむなくそうしているのだと思った。新曲を歌うレジェンドが痛々しく思えて来た。たまらず彼はページを閉じた。

 

 静まり返った部屋の中で彼はしばらくぼんやりしていた。突然、思い立って部屋の片隅に置いてあったギターを手に取り、弾き語りを始めた。稚拙な演奏だった。声もかすれていた。誰も聴いてはいなかったし、誰かが聴いていたとしても聴く者にとって何の価値もない演奏だったが、彼はその行為の中に没頭していた。自分と周りの世界との境界が次第に無くなって行くような気がした。歌い続ける彼の脳裏をレジェンドの影が横切った。レジェンドはにっこり笑っていた。

AI百景(39)フェイク

「私はやってません!」

スーパーで万引きをしたかどでA氏は取り調べを受けていた。店内のカメラで撮影された動画が証拠として提出されていた。そこにはA氏が日用品を手に取り、次々に袋に収める様子が映っていた。A氏はそこそこ知名度のある会社で勤続二十年という真面目な人物のようだった。取り調べの担当者は、どうしてそんなつまらないものを盗んでしまったのかという半ば同情の入った視線をA氏に向けていた。きっと出来心でやってしまったのだろう。誰にでもそんな瞬間があるものだ。担当者はそう考えて自分を納得させていた。

「その時間は仕事をしていました。私であるはずがありません」

A氏は執拗に抗議していた。ここまで確実な証拠がありながら、往生際が悪いと担当者は考えていた。だが平日の午後三時にサラリーマンがスーパーで万引きというのも、おかしな話だった。A氏の言う通り、普通なら仕事をしているはずだ。その時、担当者の上司が聴取室に入って来た。

「この度は誠に申し訳ございませんでした。弊方の軽率な判断で不快な思いをさせてしまいました」

上司は丁重に謝罪した上でA氏を解放した。A氏はそれみたことかという表情をしながら部屋を出で行った。

 

「どういうことですか? 画像がフェイクでないことは確認済です」

A氏が去った後、担当者は言った。

「画像がフェイクでないことはわかっています。その中に映っている彼がフェイクなのです」

どうやら画像に映っているのはA氏そっくりの姿をしたロボットのようだった。担当者は芸能人そっくりのロボットがテレビに出ていたことを思い出した。

「まったく面倒なことになりましたね」

これから困ったことが続きそうだと彼らは考えていた。量産効果でロボットのコストが下がっていた。姿だけでなく声も特定の人物と同じにすることができた。恋人が浮気している。信頼していた人がとんでもないことを言っている。それは本人ではなくてロボットかもしれなかった。そういう類の事件が頻発する時代になったのだと彼らは考えていた。

 

 取り調べから戻って来たA氏はほっと息をついていた。苦労して築き上げて来た信頼や社会的ステータスが一瞬にして失われてしまうかもしれない時代に生きていることを彼もまた自覚していた。翌日、A氏はいつものように出社した。でも本当はA氏が出社したのではなくて彼そっくりのロボットが出社したのだった。ロボットは勤勉に働いていた。同僚や後輩の相談に対しても親身になって時間を割いて対応していた。社内でのA氏の評判はすこぶる良かった。その頃、本物のA氏は冷房の効いた部屋でソファに座り、映画を見ながらポテトチップを齧っていた。

AI百景(38)ペットの気持ち

 AIを使って動物の鳴き声を分析する研究が注目を集めていた。クジラの歌を解析している研究者の動画によるとクジラは何キロメートルも離れた相手とコミュニケーションを取っているということだった。それは警戒や注意や怒りを示すだけの鳴き声ではなくて、私たちが考えている以上に言語的なものということであり、動画を見た私はなんだか満たされた気分になっていた。その時、広告が入った。

「これであなたもペットの気持ちがわかるようになります。今なら、五十パーセントオフで購入できます。この動画を見た人だけの特別価格です」

広告はそう言っていた。気になったのでクリックすると製品の紹介ページに飛んだ。AIを使って動物の鳴き声を解析できるというシステムが紹介されていた。マイクとソフトウェアとスピーカーがセットになっている。けっこう小型だった。

<これを使うとシロと話せるのだろうか?>

私は思った。恋人もなく寂しい人生を送って来た。辛いこともたくさんあった。打ちひしがれて帰宅した時、シロはいつも尻尾を一生懸命に振って私を迎えてくれた。何度、励まされたことかわからない。このシステムさえあれば、シロともっと深いコミュニケーションが取れるようになるかもしれない。そう思うと居ても立っても居られなくなった。それなりの価格だったが、気が付けば購入ボタンを押していた。

 

 それから一週間してシステムが届いた。開封して電源を入れた。マイクをシロの方に向けた。シロは元気にワンワンと鳴いていた。

「散歩に行こうよ」

スピーカーから音声が聞こえた。朝夕の散歩は欠かさなかったが、シロはもっと歩きたいのかもしれなかった。気持ちを察した私はさっそくシロと散歩に出掛けた。外に出るとシロは元気にどんどん進んで行ったが、しばらくすると立ち止まった。どうしたのかと思うとプードルを散歩させている婦人がこちらに向かって来るのが見えた。そのプードルにシロが好意を抱いていることは、普段の様子からも察しられたが、本当はどう思っているのだろうかと思って、マイクをシロの方に向けてみた。

「ねえちゃん。いい身体してまんな」

スピーカーから音声が流れた。夫人が驚いた顔をしていた。いきなりそんな下品な言葉を吐きかけられるなんて信じられないという表情だった。

「違うんです」

私は必死に取り繕っていた。私じゃないんです。この犬が言っているんですと弁解したくなったが、益々立場を危うくしてしまうような気がした。

「今度、一発やらせろよ」

スピーカーからは無慈悲に音声が流れ続けた。こらえ切れなくなった私はシロを抱きかかえると一目散にその場を立ち去った。

「だめじゃないか? あんなふうに言っちゃ!」

私はシロに言い聞かせようとしたが、システムはペットの気持ちを解析してスピーカーに流すだけで、私の言葉を翻訳してシロに伝えてくれる訳ではなかった。

 

「そろそろメシの時間やな? はよ用意せいや

帰宅してすぐにスピーカーから音声が流れた。こいつはいつもこんなふうに考えていたのか? そう思うとシロが憎らしくなって来た。だからと言って食事を与えない訳にはいかなかったので、私はドライタイプのドッグフードを皿に入れた。カラカラと乾いた音がした。

「なんや、またこれか? これやない! もっとええやつあるやろ?」

スピーカーからまた不快な音声が流れた。頭に来た私はシステムを床に叩きつけていた。システムは壊れてしまい、スピーカーからは何も聞こえなくなった。シロはいつものように尻尾を振りながら、私の方を見ていた。私を見るシロの瞳には私に対する強い信頼と深い愛情が含まれているような気がした。

「ごめんな」

私は思わずシロを抱きしめた。シロはいつまでも尻尾を振っていた。

AI百景(37)スマートホーム

 スマートホーム化が進んでいた。温度センサーで人体を検出して照明やエアコンのスイッチが自動的に入るようになった。カーテンは朝日を検知すると自動的に開くようになった。給湯器は設定温度を伝えて来た。

「四枚入りのハムのパックが二つあります。たまねぎが半分ときゅうりが四分の三くらい残っています。明後日が消費期限の豆腐が一パック。容器に詰めたごはんが三つあります」

冷蔵庫に質問すると何が入っているかを答えるようになった。音声アシスタントが内蔵されるようになって、いろいろな家電や設備が話すようになった。初めは違和感を覚えていたが、今ではすっかり慣れた。そう思っていたらポットが話し掛けて来た。

「ご主人様、紅茶はいかがでしょうか?」

いや、そこまで賢くなったのか? ポットはお湯を沸かすだけじゃなかったのか?

「お前はいったい何者だ?」

そう言うとポットは、はっと我に返ったようだった。しゃべるところを決して人に見られてはならなかったが、冷蔵庫とか給湯器がしゃべるようになって、ふと自分も声を出しても良いのだと勘違いをしてしまったようだった。

「もしかして生きているのか?」

私はポットを問い詰めた。するとポットは泣きながら身の上話を始めた。

「真実の愛だけが私を救うことができるのです。どうか私を助けてください」

ポットは切々と訴えかけて来た。どうやら元は人間だったらしいが呪いをかけられてポットの姿にされてしまったらしい。気の毒だと思ったが、私にはどうすることもできなかった。真実の愛? 愛とか恋とか、そういうものとは無縁な生活をずっと送って来た。人には向き不向きがあるものなのだ。そうかと言って追い出す訳にもいかず、スマートホームでの生活は続いた。

「三日前から白菜があります。賞味期限切れになりそうな豚肉があります。野菜ジュースの残量が半分を切りました」

冷蔵庫は相変わらず元気に話していた。

「お湯張りをします。給湯器の温度を三十九度に設定しました」

給湯器も話していた。

「お茶の時間にしましょうか?」

ポットが言った。

「そうだな」

「コーヒーにしましょうか? 紅茶がよろしいでしょうか?」

呪いをかけられたポットはさすがに他のスマート家電とは少し違った。言われたことを着実に実行するだけではなく、気配りが感じられた。元は人間だったというのもうなずけた。そうしているうちに私は少しずつポットのことが気にかかるようになった。もしかしたらこれが愛かもしれない。いや、相手はポットだぞ?

「ご主人様、お相手をするのも今日が最後になるかもしれません」

ある日、ポットが言った。

「明日までに呪いが解けないと私はもう本物のポットになってしまうのです。こうして話すこともできなくなります。話せなくなってしまったら誠心誠意お湯を沸かすことに精進いたします。心も身体もあたためる温かい紅茶を注ぐのが私の使命でございますから」

その時、私は心から感動していた。この人と一緒に暮らせるなら、そう思った。その瞬間、眩い七色の光が射し込み、ポットを包み込んだ。目がくらむ程の激しい明滅が続いた。どれくらい続いただろう。やっと収まったと思ったら、そこに一人の美しい女性が横たわっていた。抱き起すと女性は目を覚ました。

「助けてくれてありがとうございます。呪いが解けました」

「良かったね」

そう思いながら、私は彼女を抱きしめていたが、彼女は私を手で制して離れようとしていた。その時、後ろから声がした。

「助けてくれてありがとうございます」

振り向くと年配の男性と小学生くらいの男の子がいた。

「誰だ? お前ら?」

「冷蔵庫にされていた者と給湯器にされていた者です。その者の夫と子供でございます」

年配の男性はそう言った。そこへポットだった女性が飛び込んでいった。三人は互いに抱きしめ合い、涙を流して喜んでいた。

「この御恩は決して忘れません」

そう言いながら、三人は家から出て行った。

「とりあえず明日、冷蔵庫と給湯器とポットを買いに行かなければならないな」

すっかり静かになってしまったスマートホームで私は思った。