誤算

 遺産目当てで結婚した。結婚した時に私は二十八で夫は七十二だった。未亡人になる日を待ち望みながら毎日を過ごしている。いつまでも恋する乙女でいたいとか、子供がほしいとか、普通の幸せを手に入れたいと思ったことも何度かある。でも私には似合わないと思った。夫は今年で七十五になるが、毎晩激しく私を求めて来る。はっきり言って苦痛でしかないが、私は精一杯感じている振りをしている。それくらいの忍耐力と演技力を持ち合わせていないのなら、初めからこんな計画を立てたりはしない。いつだったか関西在住の金持ちが不審な死を遂げて、再婚した年若い妻が捕まったという事件があった。彼女が犯人かどうかなんて私にはわからない。でも私に言わせれば彼女は間抜けだ。せっかく金持ちと結婚できたのだから、後はじっと忍耐強く待つべきなのだ。夫が死ねば自動的に遺産が転がり込んで来る。焦って自分で手を掛けてしまったなら、破滅が待っている。夫にはいつも従順であらねばならない。夫に対して良からぬ企みをしていると思われるようなどんな些細なことも避けるべきなのだ。ただでさえ、人々はそう思うのだから。遺産を相続するその日までじっと耐え忍ぶ覚悟がないのなら、初めから結婚するべきではないのだ。きっと世間の人たちは私のこともその女と同じだと思っているだろう。それは当たっている。大正解だ。けれども私は尻尾を見せたりはしない。自分で手を下したりはしない。その日が訪れるまで、ずっと献身的な妻を演じ続けるだけだ。

「太陽が燃え尽き、海が枯れ果てて、月が砕けることがあっても、僕の君に対する愛が変わることはない」

それが夫の口癖だった。今時そんなことをいう人がいるのかと初めはかなり引いたが、今はもう慣れた。きっと私の本心を知ったら、そんな気持ちはすぐにひっくり返るに違いない。

 

 夫が入院した。胃がんと診断された。もうすぐ手術を受けることになっている。あちこちに転移している可能性もあるらしい。夫は今年、八十四になった。手術が成功したとしても体力がもたないかもしれない。そんなことを考えながら、窓の外をじっと眺める。夫はベッドで眠っている。ようやくその時が来たのだと思って少しほっとしている。いや、そんなことを考えるのはよそう。十年以上も献身的な妻を演じて来たのだ。それが一瞬で瓦解してしまうような失言がでないよう、ここは気を引き締めねばならない。緊張の糸がぷっつり切れた時に人は大きな失敗をするものなのだ。病室の扉が開いて看護士が入って来る。点滴を取り替えに来たようだ。作業が終わった後、大切な話があるので午後六時に来て欲しいと先生がおっしゃっていましたと伝えられる。待ち望んだ状況がようやく訪れようとしている。うっかり口元が緩まないように気をつけなければならない。大丈夫だ。目薬がなくても涙くらい流すことができる。子供の頃、愛犬が死んだときはとても悲しかった。あの出来事を思い出せば、いつだって泣ける。そして午後六時になり、私は医者の下を訪れた。

「大変申し上げにくいことですが、ご主人は長くはないでしょう」

「ああ、わたくし、どうしたらいいでしょう?」

思った通り、夫の病状は芳しくないようだった。早く死ね。おっと、そんなことを考えてはいけない。顔に出てしまう。もっと悲しそうに、感情を押し殺しつつ憂いを含んだ表情で押し通すのだ。

「ですが心配には及びません。ご主人より有り余る治療費を頂戴いたしております。ここは我々医師団にお任せください」

ちょっと待て? どういうことだ? さっき長くはないと言ったよな?

「身体を構成する各部位を高速高精度で制御可能な堅牢なボディと先端の超微細加工技術で作られた最新のチップを搭載したアンドロイドをご用意しております。後はご主人の記憶を移せば、ご主人は永遠の命を手にすることができるでしょう」

ちょっと待てと言っているのに! 永遠の命? 私はそんなこと聞いていないぞ。

「手続きを進めるにあたり、奥様にご署名いただきたいと思いまして、お手数ですがお願いいたします」

医師は私の前に一枚の用紙を差し出した。これに署名すれば私の計画は水泡と帰してしまう。私の望む世界は永遠に訪れなくなってしまう。だって永遠の命なのだから。だからといってここで署名を拒めば、私が夫の死を待ち望んでいることがあからさまになってしまうではないか?

「どうかしましたか?」

医師が不審な顔をしている。まずい。やはり他人の不幸で自分の幸せを実現しようとするのが間違っていたのだ。これはきっと天罰に違いない。観念した私はやむなく署名した。

 

 夫が不死身になってから四十年が過ぎた。私は八十歳のおばあちゃんになってしまった。遺産を手に入れる計画が頓挫してから、抜け殻のような人生を送って来た。アンドロイドになった夫はとても元気だった。元気というのだろうか? 歩くのもおっくうになって来た私を時々助けてくれる。意外とやさしい人なのかもしれない。もうこの年になるとさすがに野心も枯れ果てた。仮に今、夫がテロ組織に爆破されて遺産が手に入ったとしても、うれしくもないだろう。私の人生は終わろうとしている。せめて静かに死んで行きたい。そう思っていたら本当に調子が悪くなった。夫は病院に連れて行くと言っている。もうどうにでもしてくれと思っている。

「大腸がんが見つかりました。ですが心配には及びません。我々医師団にお任せください」

やれやれ、また医師団か。それにどこかで聞いたことのある台詞だ。

「あなたはまもなく永遠の命を手にすることができるでしょう。もう十分な額の治療費をいただいております」

ちょっと待て! なんでそういう話になる。私はもう死にたいのに。ベッドの傍らではアンドロイドの夫が心配そうに私を見ている。心配しているのだろうか? いまいち表情がつかめない。そんなことを考えていたら眩暈がした。

「きっと君を助ける!」

夫の声が聞こえる。余計なことすんなよ。私はそう思いながら深い眠りに落ちる・・・

目覚めてみると私は不死身の身体を手に入れていた。

 

 それから私たち不死身の夫婦は長い年月を生き抜いた。王朝が滅んでも、国が滅んでも、私たちはずっと生きていた。大陸が移動して地図が変わっても私たちは生きていた。やがて太陽が膨張を始めた。火星軌道まで膨らみ、地球は飲み込まれるということだった。すでに海は枯れ果てて、根性のない月は砕け散っていた。太陽が燃え尽きるのは私たちを吞み込んでからのようだった。

「恒星間航行用の宇宙船が完成した。とりあえず、これでアルファケンタウリまで行こう。あちこち旅していれば、そのうちいい星が見つかるさ」

夫は言った。私は別に太陽に飲み込まれてもいいと思っていた。

「あなた、まだ私を愛しているの?」

数億年振りに私は夫に聞いてみた。

「当然だよ。だってまだ太陽が燃え尽きていないのだから」

なんとかして太陽を破壊する手段はないものかと、私は思案していた。

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