合格祈願

 試験の最終科目。解答の見直しを終えて時間を確認する。あと十分で終わる。もう一度、見直しをしようと思った時に、ふいに不安になる。合格できるだろうか? 最善は尽くした。でも立ち昇って来た不安を消し去ることはできない。そっとお腹に手をやる。シャツの下にあるお守りがそこにあることを確認してほっとする。大丈夫。なんとかなるさと気を取り直す。そして最後の作業に取り掛かる。思い違いをしていないか、もう一度、確認する。やがて終了を告げるチャイムが鳴る。

 

「私はいいのよ。でも聡にとって今がどういう時期かわかっているの?」

父の浮気を咎める母の声がした。聞こえないようにしているつもりなのか? 聞こえるように言っているのか? それが私のために良いとか悪いとか、そんなことはどうでも良かった。それがあったからどうなのか? 私が父の浮気を口実に私の果たすべき努力をする道から逃げ出すかもしれないとか。いや、そんなことをして私に何の得があるのかと思った。まっとうに努力して、大学に入って、卒業したらそれなりの企業に就職して、家族を養うだけの所得を得られる身分になって、普段は忙しいけれども休日には子供を連れて遊びに出掛ける。そんなありきたりの幸せが瓦解する様を見て、そんなレールに沿った人生はお断りだと投げ出してしまうことを母は恐れていたのかもしれなかったが、私には関係ないことだと思った。そんなことより遠くの大学に合格して、父と母のいない街で暮らしてみたいと思っていた。それに父の浮気のことなんて、私はずっと前から知っていた。

 

 繫華街を若い女性と連れ立って歩く父を見たのは三か月前のことだった。その時はとても驚いたが、私はすぐに状況を理解した。そこで父は家では見せたことのない笑顔でその女性と話していた。それは社会的には決して許されないことなのだとすぐに考えたが、同時に私は父について何を知っているのだろうかと自問した。朝、早くに出掛けて、夜、遅くに帰って来る。平日に顔を合わせることはほとんどない。休日もあまり家にはいない。私が小さな頃はよく遊びに連れて行ってくれた。プールとか水族館によく行った。父が作ったお弁当を持って出掛けた。おにぎりに唐揚げとポテト。いつもそうだった。私が喜んで食べるものを作ってくれていた。私の喜ぶ顔を見て、父も笑っていた。中学生になると、あまり話さなくなった。だいたいどこでもそういうものだろう。それからずっと私たちは親子関係の難しい時期に突入していた。時々、父は私の近況に探りを入れて来たが、私は当たり障りのない回答を話が長くならないように返していた。母との関係があまりよくないことは察していた。たまには子供に声を掛けてほしいとか、そんなことを母は言っていた。家族はバランスを欠いていた。そこに父の居場所はなかったのかもしれない。そんな時に久しぶりに父の心からの笑顔を見た。それは私や家族に向けられたものではなく、私の知らない女性に向けられたものではあったが。私はそのことに嫉妬したのかもしれない。それから私は父とその女性の後をつけた。そのままホテルに直行みたいなことになったらどうしようかと思ったが、彼らはただ歩いているだけだった。街を南北に貫く目抜き通りの中央分離帯に設けられた公園。そこをただ歩いているだけだった。後をつける私に二人の持つ親密な空気が伝わって来た。その時、私は母が可哀想だとも思わなかったし、自分が捨てられたとも思わなかった。自分の知らないところで楽しそうにしている父を眺めて、何かを発見したような気持ちになっていた。その時、父の隣を歩いていた女性が一瞬、振り向いた。目と目が合った瞬間、彼女がほほ笑んだ。私はどっきりした。すぐに彼女は前を向いて、また歩き出した。心臓の音が大きくなるのがわかった。それからしばらくして二人は別々になった。父は手を振りながら地下鉄の駅へと潜って行った。彼女もずっと手を振っていたが、やがてその動きが止まった。そしてまた私の方を見た。そして近付いて来た。私は彼女が近付いて来るのをただ見ていた。

「あなた? 探偵さん?」

彼女は言った。

 

「君、お父さんにそっくりだよ」

とりあえず、私たちは喫茶店に入った。父の不倫相手とお茶を飲んでいるのだと思うと不思議な感じがした。

「父がいつもお世話になっています」

何を言っていいのかわからず、変なことを言ってしまった。彼女は大きな声で笑っていた。

「お世話になっているのは私の方だよ」

彼女は笑いながら言った。とても快活な人だった。父と相性が良いのだろうかと思った。

「受験生がこんなところで遊んでいちゃいけないよ」

いつの間にか私はいろんなことを彼女に話していた。私は普通じゃないかもしれないのだと思った。昔、見たドラマでは父親の不倫相手を責め立てる家族の姿があった。母親が可哀想だと言って彼らは不倫相手の住所を探り出し、そこに殴り込みをかけ、被害者の顔をして相手を責め立てていた。家族間の愛情が彼らをそんな行為に駆り立てていた。私はそうじゃないのかと思った。

「私、失敗しちゃったな。あなたのお父さんじゃなくて、初めにあなたと出会えていたら、不倫にならなかったのに」

彼女が冗談交じりにそう言った。私はその言葉にドギマギしてしまった。その様子を彼女が捉えているのだと思うと少し悔しかったが、そうなったらいいかもしれないという目で彼女を見ている自分を不思議に思っていた。

「でも、そんなことをしたら、あなたのお母さまにいっそう嫌われてしまいそうね」

その時、彼女と連絡先を交換した。ごく自然な流れでそうなった。私たちはもっと普通に出会うことだってできたに違いないと考えていた。

 

 次に彼女に会った時、神社に行った。合格祈願のお守りを買いに行こうと彼女が言い出して、そういうことになった。彼女といると不思議とリラックスできた。父がこの人と一緒にいたいと思う気持ちがわかるような気がした。

菅原道真って、いつから学問の神様になったのかしら?」

そう言いながら彼女は合格祈願のお守りを買ってくれた。それから二人で参道を歩いた。

「私が悪かったのかしら?」

突然、彼女がポツリと呟いた。

「私が悪かったの? 私が良くないことをしたの? あなたに初めて会った時、そんなことを考えてしまった」

いや、あなたが悪いんじゃない。私はそう思った。じゃあ何が悪いのだろう? 私にはよくわからなかった。何が良いか、何が悪いかよくわからない。勉強だけしていればいいと言われる。何が正しいのか誰か私に教えてくれと思った。

「こうして家族の人に会ってみると、私のせいで嫌な思いをしている人がいるのがわかった。聡くん。あなたは私みたいになっちゃダメよ。あなたのお父さんみたいになっちゃダメよ」

彼女はかすれた声で言った。私は別に傷ついてなんかいない。でも誰か私に教えてくれ。何が正しいのか教えてくれ。私はひたすらそのことを考えていた。

「志望校に合格するといいね。そして立派な大人になってね。家族を泣かせるようなことをしちゃダメよ」

その夜、母が父を責め立てていた。私を被害者に仕立て上げて、母が父を責めていた。父が責められるのは仕方のないことだった。でも母は卑怯だった。自分が被害者なのに、私を被害者にして父を責めていた。

 

 私は合格して受験の時に来た街を再び訪れた。これから四年間、あるいはもっと長くなるかもしれないが、この街に住むことになる。彼女は父と別れ、仕事も辞め、故郷に戻った。合格したことを連絡すると、とても喜んでくれた。これから人生をやり直すのだとメッセージに書いてあった。何が正しいのか、何もわからない私は、大人への階段を少しずつ昇り始めていた。

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