母のいた場所

「これからは気をつけてくださいね」

「申し訳ございませんでした」

認知症の母が行方不明になり、警察のご厄介になった。急な出張が入ってしまって、一人にしてしまったのが良くなかった。家でおとなしくしていると約束させたが無駄だった。私の言うことも、どこまで通じているのかよくわからなかった。だからと言って、ベッドに縛り付ける訳にも行かなかった。ずっと母に付き添える訳ではないので施設に入居させた方が良いと考えているが、近くの施設に空きはなかった。せめて家にじっとしていて欲しかった。また徘徊してしまうかもしれない。そうなってしまったら、ご近所や警察の世話になる他なかったが、それもまた躊躇われた。それで仕方なく、母がいつも来ている服にGPSをつけておくことにした。あまり人道的とは言えないが、これで行方不明になっても探し出せると思った。

 

 案の定、また母が行方不明になった。仕事から帰って来ると、母の姿はなかった。GPSを頼りに母を探しに出掛けた。GPSは信じられない位置を示していた。その情報が間違っていなければ母は四国にいるのだった。父も母も二人共、徳島県の出身だった。父が大阪に拠点を持つ会社に就職したので関西で暮らすようになったのだという。小さい頃は夏休みになるとよく母の実家に連れて行かれた。でも祖父と祖母が死んでしまってからは、里帰りの必要もなくなってしまった。今になって、そんなところに行く用もないはずだし、会う人もいないはずだった。

 どうやってたどり着いたのかはよくわからないが、母は実家の近くにある橋の上にいた。すぐそばを川が流れていて、欄干が赤くて中央が丸く盛り上がったちょっとおしゃれな橋が架かっていた。母はそこに立っていた。声を掛けようとすると母が私を見て行った。

「和夫さん。随分待ったのよ。どうしてもっと早く来てくれなかったの?」

母は父の名で私を呼んでいた。親子なので似ているとよく言われていた。でも母が父と私を間違えるはずはなかった。それに父はずっと前に死んでしまっている。母はそのことすら忘れてしまったのだろうか?

「大阪の大学は楽しいのでしょうね。でも私はずっと会えなくて寂しい思いをしているの。こっちに戻っている間くらい、私を優先してくれてもいいじゃない?」

いったいそれはいつの出来事だったのだろうか? 母の言葉は私を失われた過去へと引き連れて行くような感じがした。私が生まれる前の過去へと時間が舞い戻って行くような気がした。そこではまだ初々しい恋人たちが、好きという溢れ出る情熱を少しも隠そうともせずに、一緒の時間を過ごしていたのだろう。何もいらない。ただ、あなたがそこにいれば良いという気持ちだけで生きていける時間がそこにはあったのだろう。私は泣きそうになって母を抱きしめた。そしてタクシーを呼んで駅まで戻った。そこから列車を乗り継いで大阪まで戻った。疲れ果ててしまったのか隣の席で母はずっと眠っていた。

 

「昨日、久しぶりにお父さんに会ったのよ」

徳島から帰って来た次の日、母は言った。

「でもおかしいわね。お父さんはずっと前に死んだはずなのにね。でも結婚する前によく待ち合わせた場所にいたの。プロポーズされたのもあの橋の上だった。きっと幸せにすると言っていたのに苦労の連続だった。でもあなたが生まれてお父さんは本当に喜んでいた」

私は黙って母の話を聞いていた。

「昨日はありがとうね」

最後に母はそう言った。翌日、母は八十一歳の生涯を閉じた。とても安らかな死に顔だった。