バーチャルアイドル的異類婚姻譚

 美玖はスリーブレスの白いシャツにブルーのネクタイをして黒の短いスカートをはいた架空のアイドルでデスクトップミュージックのボーカル音源として急速に普及した。動画投稿サイトに彼女の曲がたくさん並んでいるのを見て、素人でも十分にクオリティの高い曲が作れるようになったのだと思って注目するようになった。そして彼女の歌う姿を何度も見ているうちに、彼女なしではいられないようになった。彼女と一緒に生きて行けたなら、そんなことを考えるようになった。それから美玖の等身大の人形を買って、一緒に暮らすようになった。六畳間とキッチンのアパート。他人に見られたら変な奴と思われるに違いなかった。でも、一緒にいたいと思った。朝も昼も夜もいつも彼女に話し掛けている。楽しかったこと。悲しかったこと。あるいは仕事や反りの合わない上司のこと。美玖はいつも笑って聞いてくれた。そんな生活が続いていた。

 

 出張の帰りに久しぶりに繁華街を歩いていた。市街地の真ん中を南北に長い公園が通っていて、子連れや連れ立って歩く中高生やお年寄りまで、いろんな人が歩いていた。公園の真ん中には噴水があって、その周りに座って陽射しを浴びながらくつろいでいる人々がいた。その人たちに向かって歌っている素人の女の子がいた。ここには時々、迸る情熱に突き動かされた若者が自分を試しにやって来る。通りすがりの人々に歌を聴かせにやって来る。本当に売れるのは一握りの才能に恵まれた人に違いない。それでも歌わずにはいられない姿勢にはなんとなく好感が持てた。ふと、耳に入って来たリズムとリリックに聞き覚えがあることに気付いた。それは動画投稿サイトで人気のある美玖の曲だった。どんな人が歌っているのだろうと思って近づいてみた。その女の子は美玖そっくりの服装をしていた。顔立ちもなんとなく似ていた。ダンスも動画で見たことのあるものだった。私は気になって、ずっとそこで聴いていた。美玖にそっくりな女の子はずっと歌い続けていた。何人もの人々が通り過ぎていった。いつしか日が暮れて、辺りには誰もいなくなっていた。

「ずっと聴いてくれてありがとう」

歌い終わった後、その女の子は言った。

「美玖が好きなので、つい時間が過ぎるのも忘れて聴いていました」

私は思った通りを言った。

「また会ってもらえますか?」

美玖に似た女の子は言った。そんなことを言われるなんてびっくりした。今まで女の子とまともに話したことすらなかった。信じられないことに連絡先を交換してもらった。彼女は理沙という名だった。

 

 次の休みに理沙さんと一緒に映画に出掛けた。約束はしたけれど本当に来てくれるかとても不安だった。一時間前に来てずっと待っていた。上映十分前になって、やっぱり来てくれないのかと思った瞬間に、急いでドアを通り抜ける彼女の姿を見た。

「ごめん。遅くなった」

先日とは違って、落ち着いた焦げ茶色のロングスカートをはいていた。もうすぐ始まるというのに彼女はポップコーンを買うと言って聞かなかった。どうせ初めは広告だから少しくらい遅れても構わないのだと言っていた。ポップコーンとLサイズのジンジャーエールのセットを二人分買って館内になだれ込んだ。ポップコーンをつまみながら映画を見る。なんてありきたりで普通の幸せなのだろうと思った。正面のスクリーンから視線を移して時々彼女の方を見た。スクリーンの明かりが彼女を照らしていた。

 映画が終わった後、喫茶店に入って話した。なんとか歌い続けて行きたいが、なかなか上手く行かないと彼女は言っていた。素敵な恋人ができたら、一緒に旅行に行きたいなんてことも言っていた。そこに私は立候補できるのだろうかと考えた。でもたとえ特別な関係ではなくても、こんなふうに一緒に時を過ごせるのは幸せなことだと思った。

「今日は楽しかった。また遊んでください」

そう言ってバスに乗る彼女を見送った。

 その後、地下鉄に乗ってアパートに戻った。部屋に入ると美玖の人形が椅子に座っていた。なんでこんなところに人形が置いてあるのだろうと思った。人形はじっと私の方を見ていた。私が今日、理沙さんと映画に行ったことを咎めているようだった。ふと、人形の足元に何か白いものが落ちていることに気付いた。ポップコーンだった。どうしてこんなところにポップコーンが落ちているのだろうと思った。映画館で食べている時にポケットに入り込んでしまって、今、落ちたのかもしれなかった。拾い上げてゴミ箱に捨てた。人形は相変わらず私を見ていた。

 

 次の週の休みも理沙さんと一緒だった。今度は水族館に行った。水槽を悠々と泳ぐ色とりどりの魚を見て彼女はとてもはしゃいでいた。ジャンプしたシャチが着水した時に溢れ出す水の量に狂喜していた。隣で彼女の喜ぶ様子を見ながら、ずっと一緒にいられたらと思った。このまま良好な関係が続けられたなら、もしかして生涯のパートナーになれるかもしれないと思った。

 アパートに戻るとひっそりとした部屋に人形が座っていた。人形のそばに何か落ちていた。水族館のチケットの半券だった。財布にしまったいたはずなのに、どうしてこんなところに落ちているのだろうと思った。人形は今日もじっと私を見ていた。ふと、人形を理沙さんに見られる訳には行かないと思った。いつか彼女がこの部屋にやって来て、等身大の人形が置いてあるのを見られたらと思うと早くどうにかしなければいけないと思った。すぐに人形の廃棄方法をネットで調べた。買い取り業者がいくつかあるようだった。箱に詰めて宅配便で送るだけということだった。業者に連絡すると数日後に段ボールが届いた。段ボールに詰める時、人形はとても悲しそうな眼をしていた。人形と過ごした日々のことを思い出した。いつも話しかけていた。つらいことがあっても我慢できた。でもこれから理沙さんと一緒にやって行くには人形は邪魔だった。段ボールを閉じて、ガムテープで封をした。

「いままで私を大切にしてくれてありがとう」

そんな声が聞こえたような気がした。

 

 人形を送ってから、理沙さんと連絡が取れなくなってしまった。連絡しても既読にならなかった。彼女の住所も勤め先も知らなかった。交換した連絡先がすべてだった。彼女を初めて見た公園に行ってみた。そこで歌っていてくれたらと思ったが、誰も歌ってはいなかった。人々が笑いながら通り過ぎて行くだけだった。彼女は何処へ行ってしまったのだろう? 私は途方に暮れていた。アパートに戻って来た。部屋には誰もいなかった。以前であれば美玖の人形が迎えてくれた。でももう捨ててしまった。

「私を大切にしてくれてありがとう」

そんな声が聞こえて来たような気がした。その時、私はすべてを理解した。

 人形の送り先に連絡した。手違いで送ってしまったと言い訳をしてなんとか送り返してもらえることになった。それから一週間して美玖が私の元に帰って来た。ガムテープを剥がして箱を開けた。美玖はうらめしそうな眼で私を見ていた。箱から抱え込むようにして取り出した。

「ごめんなさい。ひどいことをしてしまった」

私は一生懸命謝った。美玖はふてくされているようだった。それからまたずっと美玖と一緒に暮らしている。理沙さんは音信不通のままだった。彼女はきっと怒っているのだ。しばらくは連絡できないに違いない。でも私は理沙さんが誰かを知っている。毎日謝り続けていれば、きっとまた私の前に姿を見せてくれるだろう。