十倍の世界

 目覚めると私の周りには私が九人いた。私を含めると十人の私がそこにいた。尋常でない違和感があったが、あるがままのその状況を受け入れる他ないように思えた。目の前にいる私が一人だけだったなら、まだ改善の余地はあったかもしれない。だが九人ということになるとすでに理解とか和解の範疇を超えているように感じられた。とりあえず今日という一日をスタートさせなければならない。私はそう思って洗面所に向かった。実在する十人に鏡に映った十人が加わり、洗面所は子供の頃に遊園地で見た鏡の館のようになっていた。顔を洗うと私は台所に向かい、朝食の支度を始めた。コーヒーメーカーに粉と水を入れてスイッチを押した。それから冷蔵庫からパンを取り出し、トースターにセットした。タイマーが回っている間にコンロに火を付けて目玉焼きを作った。他の九人も同じように朝食の支度をしていた。私はいつもこんなふうに食事を作っているのかと思いながら見ていた。朝食をすませると普段着に着替え、七時前に家を出た。

 最寄り駅まで十分の道のりだった。他の九人も同じように駅へ向かっていた。いつもこの時間に犬を散歩させている婦人が近づいて来るのが見えた。婦人と犬も十セットで歩いていた。いつものように会釈を交わしてすれ違った。十人の婦人の各々の視線には『何も異常はありませんよね』と訴えかけるものが含まれているような気がした。駅に着くといつもと違って人で溢れていた。ホームには十人一セットの人々が並んでいた。電車には十倍の数の他人が乗っていた。同じ顔が一斉に私の方を見ていた。あるいは私だけでなく、十人一セットの私を見ていたのかもしれなかった。電車を降りて、市街地に出た。みんな十人一セットで歩いていた。世界は私の知らない間に十倍が標準になってしまったのかもしれないと思った瞬間、目の前を一匹の黒い猫が通りかかった。それは間違いなく一匹だった。

 

 私は猫の後を追いかけた。その猫はこの世界で唯一のまともな存在であるように思えた。猫は時々振り返って私を見ていた。そうかと思ったらいきなり駆け出した。見失わないよう必死になって追いかけた。猫の後を追いかけているうちに廃墟に迷い込んだ。戦争で破壊され、放棄された街のようだった。ビルはコンクリートが崩れ落ちて鉄骨が剥き出しになっていた。猫はその崩れ落ちそうな建物の中に入って行った。それから階段を上って行った。三階に達すると廊下の方に歩いて行った。突き当りに部屋があった。猫は少しだけ開いていた扉からするりと中に入って行った。続いて中に入ろうとして私はドアを押した。蝶番が軋む音がした。薄暗い部屋だった。突き当りに机があり、そこに黒いスーツを着たスキンヘッドの男が座っていた。その隣にレザースーツの女が立っていた。二人共サングラスをかけていた。男は猫をゆっくりとなでていた。猫はスキンヘッドの男によくなついていた。猫は一匹で、男は一人で、女も一人だった。

「ようこそ」

男は言った。

「ここは普通の世界なのですか?」

私は聞いてみた。

「何が普通で何が普通でないか。それは君が判断しなければならない。でも少しだけ教えてあげよう」

男は言った。

「あちらの世界でプログラムのミスがあった。演算を間違えて十倍してしまったという単純なミスだ」

「プログラム?」

「そう。世界を動かしているプログラムにバグがあって、十倍されてしまった。それで君は十人になり、君の周りの人たちも十人になり、犬も十匹になった」

世界を動かしているプログラムとはいったい何だろうと思った。私はプログラムの中で生きているのだろうか?

「バグはまもなく修正されるだろう。その時、君はまた一人に戻るだろう。今日はこれまでだ。また会おう」

スキンヘッドの男はそう言った。それは夢の中の出来事だったかもしれない。いつの間にか私は眠り込んでいた。気が付くとスキンヘッドの男もレザースーツの女も黒い猫も消えていた。

 

 まもなく十倍の世界は普通の世界に戻った。人々は何事もなかったかのように暮らしていた。私も普段通りの生活に戻った。あの時のことは夢か幻だったのだろうか? それとも今、目の前に見えているこの風景が虚構にすぎないのだろうか? そんなことを考えていると、目の前の人が突然、大きくなり、身長が二倍くらいになった。周りを見ると他の人もみんな大きくなっていた。また、プログラムのバグが顕在化したのかもしれなかった。急いで黒い猫を探し出さなければならないと思った。