現代のベートーヴェン

 指揮者のタクトが下りた。緊張から解き放たれたコンサートホールは割れんばかりの拍手に包まれた。指揮者は丁寧にお辞儀をした後、自作を観客席で聴いていた作曲家を呼び寄せた。作曲家が壇上に上がると拍手が一層激しくなった。ホールを訪れた人々は一様に誇らしげな顔をしていた。私たちは現代のベートーヴェンを目の当たりにしていると確信した誇らしさだった。作曲家は難聴を克服して、この見事な交響曲を書き上げた。今日は、歴史的な一日として長く人々の記憶に留まり続けることになるだろう。人々はその場に立ち会えたこと、自分自身が歴史の生き証人になれたことに恍惚としていた。

 それから半年後に次の交響曲が初演された。聴衆は熱狂的な支持でこれを受け入れた。評論家の間でも二十一世紀が生み出した画期的な交響曲という一致した見解があるようだった。それまでの音楽を根こそぎ変えてしまったベートーヴェンの英雄交響曲と同じく、現代の音楽をすっかり変えてしまうかもしれないと人々は考えていた。現代音楽は心を失くして迷走していると思っているクラシック音楽のファンも多かったが、この曲こそ、新しい形式と失われて久しい感動を兼ね備えていると人々は感じていた。やはりベートーヴェンの再来かもしれない。専門家の間でもそう囁かれていた。

 

 熱狂の最中、『偽装された現代のベートーヴェン』という暴露記事が週刊誌に掲載された。作曲は彼の手によるものではなく、ゴーストライターが書いていたということだった。耳が聞こえないというのも嘘ということだった。聞こえにくいようではあるが、障害者手帳を交付されるレベルではないということだった。ゴーストライターとして大半の曲を作っていた音楽家は世間を騒がせてしまったことに対して必死に謝罪していた。本人は沈黙を保っていた。予定されていたコンサートは中止され、チケットの払い戻しが行われた。評論家は口をつぐんだ。CDを出していた指揮者も沈黙していた。積極的に演奏曲に取り上げていたオーケストラも当たり障りのない選曲に戻った。演奏を生で聴いて新たな啓示を受けたと思っていた人々は、あの時の体験はいったい何だったのだろうかと訝しげに自らの体験を振り返るのだった。

 

 それから一年が経過して『現代のベートーヴェン』のことはすっかり忘れ去られてしまった。人々は退屈していた。経済活動は停滞していたが、株価は高値を維持していた。政治家は経済政策の成功をアピールしていたが、所得は減少の一途を辿っていた。人々はアメリカや中国の経済発展を羨ましく思いながら日々を過ごしていた。この先、何か良いことがあるとは到底思えなかった。そんな時、テレビで『目の見えない画家』の特集が放映された。番組を見て感動した人々は、その画家の個展に殺到した。彼の作品は現代社会の諸問題に悩む私たちを救済してくれるように思えた。彼の見えない目は時代を通じて不変である真理を的確に捉え、私たちに光明を注いでくれるのだと感じていた。目に見えるものに振り回される自分たちには気付かないものを色や形に変えて私たちに見せてくれているのだと考えていた。現代絵画における革命だと言い放っている評論家もいた。それは言い過ぎかもしれなかったが、大衆に親しみを持ってもらいにくい分野であると自覚している専門家たちは、彼が注目されるのは全体として良い兆候だと捉えているようだった。

 やがて目が見えないというのは嘘だと暴露された。作品は本人が描いたのではなくAIが自動生成したものということだった。人々は一様に口をつぐんだ。自分たちの味わった感動はいったい何だったのだろうかと首をひねった。

 

 きっと一年もすれば人々は『目の見えない画家』のことをすっかり忘れてしまうだろう。その時にはテレビで『嗅覚の麻痺した警察犬』あるいは『味覚を失った料理人』の特集が組まれるかもしれない。