再生医療

 ABS細胞が発見されてから再生医療は目覚ましく発展を遂げた。事前にABS細胞を採取して保管しておくことで必要になった時に再生医療を受けることができる。心臓や肺を早急に移植しなければ助からないとなった時に、ドナー登録している人が都合良く亡くなってタイムリーに治療を受けられることはまずないだろう。それに首尾よく臓器移植が成功したとしても、拒絶反応が起こる可能性がある。免疫システムは移植された臓器を自分のものとは認めずに攻撃を加える。その点、自分のABS細胞をを培養して作られた臓器であれば、拒絶反応の起こる確率はぐっと下がる。ABS細胞の採取と保管を手掛ける企業は、以前は数える程しか存在しなかったが、今では一般的になり、サービスの価格も下がって来た。保管にいくらかコストはかかるが、それは将来の不安を取り除く保険のようなものであり、月々の保険料が少し増えるだけだと割り切る人が増えて来ている。誰もが再生医療の恩恵にあやかることができる時代が到来したと言えるかもしれない。

 一方で採取されたABS細胞を不正に培養して使用したという報告が増えている。採取したABS細胞を保管するという顧客との契約は確実に果たしてはいるが、余分に培養した細胞を使ってしまう研究者がいるらしい。もともと価格を下げる交渉の中に、研究に対する援助に協力してもよいという項目があって、それを許可すると何かしらの研究に使われる場合がある。たいていの場合は何も問題は起こらない。しかし中には度を越えた研究をしようとする者もいる。万能の細胞は研究に携わるものを誘惑してしまうこともある。

 

 K氏はいつものように地下鉄を降り、改札を抜け、エレベーターに乗って地上に出た。すくそばにスーパーがある。買い物に来た人々が、少し速足で淡々と歩いている。K氏はその日、いつもの人込みの中にこちらをじっと見つめる何か粘りつくような視線を感じていた。いや、今日だけではない、ここ数日の間、ずっと見られているような気がしていた。そしてその日初めて、自分をじっと見つめる者の正体を見た。それは自分と瓜二つの姿をした人間だった。ドッペルゲンガーだとK氏は考えた。死期が近付くとドッペルゲンガーに出会うと言われている。とにかく良くない傾向に違いない。

「あなたの記憶を分けてもらえないですか?」

ドッペルゲンガーはそう言った。いったい何を言っているのだ。こいつが私の分身だったなら、私の記憶くらい持っているだろう。それに記憶は分けるものではない。主体の体験したことを時系列に並べたものだ。

「黙ってないで教えてくださいよ。私はあなたとまったく同じ組成の身体を持っているのです。遺伝子的に同一です。あとはあなたの記憶さえ手に入れれば、あなたになれるのです。でも、その時には私があなたとして生きて行く訳ですから、あなたにはいなくなってもらわなくてはならないですね」

その男は言った。私と同じ身体? でも、いったいどうして? そう思っていると、その男が襲い掛かって来た。不意を突かれた私は後ろから首を絞めつけられていた。

「まぁ、記憶がなくてもなんとかなると思いますけどね。やっぱり、あなたにはすぐにいなくなってもらった方がよさそうです。私があなたと入れ替わってしまえば、今度は私の記憶が正しい記憶になり、私が本当のあなたになる訳ですからね」

その男はそう言いながら、腕に力を入れて来た。私は男の腕をつかんで、引き離そうとする。だが、苦しい。このまま殺されてしまうのか。そう思った瞬間、息が楽になった。私に襲い掛かって来た男は警備員らしき男たちに取り押さえられていた。

「大丈夫ですか?」

警備員の一人が言った。

「ええ、なんとか。ところでこいつはいったい誰なのですか?」

私は聞いてみた。

「あなたはABS細胞の登録をしていますね?」

「ええ、しています。それが何か?」

「細胞を不正に取得して大規模な培養をしている組織が暗躍しています。臓器のレベルではなくて、個体のレベルまで培養しているのです。とにかく、間に合って良かったです。すり替わってしまったら、もう本物と区別がつきませんから」

恐ろしい話だった。もうすでに、私の知っている人たちも何人かはすり替わっているのかもしれなかった。